現実を見つめ、現実を超えていく。

ぼくは簡単に現実を見ない。今のぼくには現実など必要ない。こんな自分を活かさない手はないと思うようになった。

ぼくの思考に現実が追いついてしまったら、ぼくはその幸せに満たされて、現実に埋もれてしまうに違いない。ぼくの盲目な時代は、20代で終わったのだ。20代は現実に晒される10年だった。完璧だと思っていた現実と、直視できない現実が交差していった。そして30代の前半は、その現実の後始末をしているようであった。

現実を見るということは、人を見るということだ。人に寄り添うということ。人に動かされるということ。人の周りには現実が溢れている。例えばそれは、人の愛情に満たされることかもしれないし、人のために尽くすことかもしれない。現実に翻弄されて生きることは素晴らしい。現実を見つめて、とにかく頑張る姿は美しい。それはもう、正しい生き方だ。

それに対して、素晴らしくも美しくもない間違った生き方というのは、新しい概念の芽、オリジナルの芽が埋まっている。しかし間違わないで欲しいのは、素晴らしくも美しくもない生き方というのは醜い生き方ではない。間違った生き方というのは犯罪的なことをするということではない。多くの人が望み、そのとおりになっている既存の現実を、想像が超えるということだ。

しかしぼくは、現実に翻弄される。現実に苦しむ。なぜなら、現実に生きる人間をこの目で見るからだ。見ない振りはしない。見ない振りをしていたら、現実と自分の差異が分からなくなり、現実を超えることができなくなる。現実を見ない振りをした人の行き着く先は、いわゆるひきこもりである。

ぼくはこれからも、現実の人と仕事をして、現実の人に恋をして、現実を振り返る。現実の自分、人に愛されない人間が、社会に出て何をやっているのかと、現実の当事者になれない自分に頭を抱える。そして現実なんて見ない方がましだろう?と心で叫びながら、停止寸前のぼくの思考が現実を超えていく。