自意識の外側、言葉の世界。

 ぼくには言葉しかない。ぼくを存在させる言葉以外の意識を消し去らなければ、このように言葉で文章書いたり、世間に出て言葉を発することができない。

 ぼくは物体としての自分がどうしても受け入れられずにいる。コンプレックスの塊だと言ってしまうのは簡単だけれど、ぼくは自分のことをどう捉えて良いのかわからないのだ。恐らく、客観的に見ることもできないし、主観的にも歪んで見えてしまっているのだろう。

 普段は自分の身体に気を使っている。調子が悪くなるのはなるべく避けたい。だから基本的には健康体であり、トレーニングやランニングによって、ちょっとした肉体的な負荷や精神的疲労にも耐えることができる。

 着ている服も常に体型に合うものを着ていて、ちゃんとしたそれなりに良い服を着ている。そのかわり(なのか)、あまり物を持たないことから、だいたいいつも同じ服を着て、新しく気に入ったのを見つけたら乗り換えるというスタイルになっている。

 髪の毛は残念ながらほとんどないので、坊主。いつでも自分で坊主にできるので、なかなか気持ちがいい。祖父の隔世遺伝で、祖父はそれでも格好よかったので、いつかぼくも格好よくなるのではないかと思う。思うしかない。

 あと去年ドライアイがひどくて長年のコンタクトをやめて眼鏡になったので、眼鏡な坊主となっている。髪の毛はいじれないので、おしゃれは眼鏡の工夫くらいかと思っている。

 しかし、いくら自分なりに気に入る自分を作り込んだとしても、外に出るのは嫌だし、人に見られたくない。誰もあえてぼくのことなんて見ないだろうし自意識過剰なだけだけれど、ぼくにとっては自意識過剰にならない理由がない。

 ぼくは過剰になった自意識を無害化したとき、言葉を使うことができるようになる。逆に自意識過剰なぼくは、黙り込むしかない。内面の一番外側が外面だといわれることがある。ぼくは自分の外観に薄い膜を張り、自意識過剰な内面が醸し出す醜い外面を隠す。意識できてしまう自分を消すことで、文章を書き、言葉を発する。何かの拍子で自分を顧みてしまったときは、自分は何を言ってるんだと愕然とする。毎日毎日、その繰り返しだ。

  そしてもちろん、自分の存在を意識したぼくには、愛の言葉を紡ぐことだってできないだろう。

 なんだこいつこじらせてんな、と思われる。それでいい。こじらせていること自体が、ぼくの中では自分のすこし外側、言葉の世界なのだ。こじらせていなければ、無言の存在に過ぎない。ぼくはまだ、自分の存在を無にしたくない。言葉を使うことは、ぼくが存在するための最後の手段なのだ。