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明日も生きるために、今日を生きている。

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 ぼくが毎日何かをする理由は、明日も生きるためである。シンプルにいえば、これだけなのだ。

 

 分かりやすいこととしては、労働して給料をもらうということは、明日生きるためにやっていることだといえる。社会のため将来のためというのは、明日のためにという理由だけでは満足できない人間の後付けの理由だ。労働の報酬は毎日もらえる仕事もあれば、定期的にもらえる仕事もある。それは単純に効率の問題であって、例えば月給の場合、労働者は本来もらうべき報酬を保留されていることになる。

 

 労働内容によって、もらえる給料の量に違いがある。それはつまり生活で使えるお金の量が違うということだ。給料が高い人は、多いお金で生活をする。給料が低い人は、少ないお金で生活をする。これはいわゆる必要経費の考え方である。給料が高い人は、明日また生きるために必要な経費が高くなる傾向にあり、給料が低い人は、その逆の傾向がある。より具体的なことでいえば、給料が多い人は、お金がかかる女性と付き合い結婚することができるので、女性の選択肢が可能性が広がるり、お金がない人はお金がかかる女性とは結婚できないので、全体としては最適化されてきた。

 

 このような給料の差異による生活感の違いなどがインターネットなどによる情報流通によって目立つようになってきている。そのせいで給料や必要経費、はたまた結婚の概念が下世話に語られてしまうところがあると感じている。実際に、時代の変化とともに今までは最適化されてきたようなことが、うまくいかなくなってきている。たとえば、ぼくのように給料のわりに必要経費が少ない個別の事例が増えていきているという事実が、ビジネス雑誌などに孤独な中年男性の自殺特集などが組まれたりすることから明らかになってくる。

 

 話を戻そう。(しかし、毎日よくそれる)

 

 人は誰でも、明日も生きるために行動をしている。そこが崩れると、人は廃れてしまう。廃れながら生きることを望む人はいない。もし望んで廃れているように見える人がいても、それは望んで廃れているわけではなくて、追い込まれて自分を肯定していったあとなのだ。だから廃れている人はどこかおかしくなっていると考えるべきで、なにかのきっかけで最悪の自体を招くこともある。

 

 人それぞれが明日を生きるために労働をするのだと考えれば、職業に貴賎はないはずである。フリーターや主婦や子供、ニートの人も、明日を生きるために今日を生きているのであれば、そこに優劣のようなものはなくなる。今日を生きることに胡座をかいてしまうから、ときに争いや嫉妬を生むのだ。楽をして明日を生きるために何もしなくても、消費をすることで社会に貢献していると言われることがあるけれど、それは違うと思っている。消費して食べて健康になるとか、消費して何かを生み出すことで、明日のために生きなければ、今日を生きていることにならない。

 

 今日は何の話しをしているのか分からなくなってきてしまったけれど、とにかく、今日も明日のために生きる。