承認欲求ではなく共存欲求

 ネット界隈では、ブログを頻繁に書くのは承認欲求の塊のようなものだと言われることがある。ぼくは自分で毎日ブログを書いていて、承認欲求が満たせているのかどうか考えていたけれど、いまいち承認欲求は満たされないような気がしていた。スターを頂いたり読者登録して下さることは何よりも嬉しい。これからもっともらえるようになりたいし、それがブログを続ける理由になっていることは確かである。しかしその割りには、本当に毎日更新するとか、読者に対して優しくないようにも思う。

 ぼくは書くことが好きである。好きなことをやっている時間は楽しい。昨日の話の流れでいうと、ブログを書いているぼくは、しがらみのない自由な存在である。しかしブログを書いているネットでは、どこまでいっても、何を相手にしているかが分からないという、実は自由かどうかも分からない環境であって、いってしまえば、まやかしの自由だとさえ思えてくることがある。

 ブログを書くのは自分自身のため、というのはもっとわからない。自分のためにと言えるのは、自分を見ている人がいることが前提だと思う。自分探しなんていうのもそう。自分探しとは、見られたい自分とはどういう人間かを探すことをいうのだ。もちろんネットで繋がっているという状態は、見られていることの一形態だろう。しかしぼくは誰に見られたいのか、わからない。ここに書いている自分とは、なんなのだろう。

 ぼくは自由になって、人を楽しませたりうっとりさせたり幸せにしたい。ネットで何かを書くことがぼくの自由であるならば、ぼくは承認ではなく、ぼくと共存して欲しい。共存欲求というと、相手に共存を強いているようで、わがままにも聞こえる。しかしこれが偽らざるぼくの欲求なのだ。

 共存という言葉から、もう十分いろいろな人と共存しているのではないかと思われるかもしれないが、それはおそらく、距離感の問題だと思う。目に見えて手が届く、けれど物理的な距離が近いだけはない、影響を実感しあえる関係といったら良いだろうか。感覚的ではあるが、これが共存の適用範囲だと思っている。

 ぼくが今実感できる共存関係は、労働の役割をもらっている会社がその一つだろうか。会社という共存関係においては、ぼくは会社や会社の仲間に労働力を与えることで、存在を認められる。ぼくは今ある共存関係を手放そうとは思わない。そんな勇気もないし、昨日書いたとおり、なにもかも手放した自由のほうが危険である。

 ぼくは、縦の共存関係では満足できなくなった。縦の関係は依存と言い換えることができる。会社でいえば、経営者と労働者は依存関係にある。今のぼくには依存ではない対等の関係、横の関係が足りない。また昨日の話に繋がる。人を幸せにするということは、横の関係において自由を共有する関係である。ぼくはその共存の自由を手にしたいのだ。