幸せとは対人関係に見出されるもの /「嫌われる勇気」(岸見一郎、古賀史健)

 「嫌われる勇気」これはアドラーの個人心理学について書かれた本のタイトルである。ぼくはこのブログで幾度となくアドラーの名前を出して、目的論に従った考え方を書いてきたが、この「嫌われる勇気」の意味については上辺のフレーズとしてでしか理解できていなかった。
 
 「嫌われる勇気」、それは自分を外に開く勇気のことだ。目的論の最終目標は「幸せになること」である。そして幸せになることは一人では不可能であり、だから人は悩むことになる。アドラーによれば人の悩みの源泉はすべて対人関係によるものであり、さらに目的論における人の悩みとは、目標と現状の乖離、つまり「幸せでない」ことである。このように目的論は対人関係の問題と切り離すことはできない。対人関係は一人では成立することがない。対人関係があったとしても、それがどうでもいい無味乾燥な関係なら意味がない。幸せになるには、人に好かれる必要があるのだ。
 
 それでは「好かれる」とはどういうことだろうか。当然それは恋愛のことだけをいっているのではない。自分と対等の関係を築いてもらえること。それが「好かれる」ということだ。対人関係は外に開いた者同士の関係であり、自分の中に閉じ籠ったままでの対人関係などあり得ない。
 
 ここまで考えれば明らかだろう。「嫌われる」とは「好かれる」の逆であり、対人関係が自分の期待通りにいかなかった結果だ。アドラーは嫌われてしまった場合に自分が傷つく必要はないという。なぜなら自分のことを好きになるか嫌いになるかは相手の問題だからだ。自分は幸せになるために相手に心を開いたが、相手がそれを受け取れなかっただけ。それは自分のせいではない。相手と事前に多くの事柄を経験してから対人関係を築いていくわけではないのだから、いつでも期待はずれが起こる可能性がある。だからこそ、「嫌われる勇気」をもって人と対峙する必要がある。
 
 実のところ、これはとても当たり前のことを言っている。嫌われるかもと思いながら怯えていたら、自分も相手も幸せになんてなれない。こんなこと言われなくても当たり前だよ、それでも人は一人じゃいられないんだ、っていう人のほうが多いと思うし、そのほうが健全だ。
 
 ぼくの場合を言えば、今の時点で嫌われる対象がほとんどいないという意味で、無敵のようにも思えてくる。ブログを書いていて突然文章で攻撃されたとしても、それがぼくの知っている人である可能性はほぼ皆無だし、ブログを読まれなくってしまっても、それが誰だかわからない。言い方を変えれば無敵というより孤独なのだが、外に開ける場所がインターネットにしかない以上、ぼくはここで加速し続けるしかない。