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理系は因果論であり、文系は目的論である。

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 ぼくは理系だとか文系だとか、あまり関係ないと思ってきたのだけれど、かなり固い概念として存在していることは重々承知している。ぼくは学生のころ、高校では文系のクラスに所属していて、大学を出るときには数学科を出ていた。いまの感覚としては、どちらとも関係のない職業についているけれど、一般的な見方としては理系的な職業である。ブログも理系とか文系とか関係ない雰囲気にしているつもりだけど、おそらくぼくのブログは理系っぽいと思われているのではないだろうか。

 これから文系とか理系に対する感覚について書いてみる。まず理系から。

 理系の成果は証明されていること(エビデンスがあること)が前提となっている学問である。オリジナルはコピーから始まるというように、最初のきっかけは出来合いの理論の模倣だとしても、自ら生み出したとする成果については、客観的に証明されている物語として完結していなければならない。理系の成果として、ときには画期的なこともあるかもしれないが、基本的には理解できる範囲、想像の範囲である未来に向けて発展を続けている。

 あえて言い換えれば、理系は過去の因果に基づく学問である。学問に限らず、証明されている物語を繋ぎ合わせながら生きている人は、理系的な考え方をする人だといえる。理解していることについて、それが正しいこととして語る。仮説や都市伝説であっても、現時点では証明し切れていないという理由から、それを疑わない態度をとる。自分の経験や知識の理解から、結論を出している。明るく未来に生きようとしているように見える人がいたとしても、それは過去の経験や知識によって支えられているものであったり、経験や知識により身につけた物語による自信であったりする。

 続いて文系にはついて考えてみる。

 文系は確固とした物語というものを必要としてない。そして文系の成果に対しては証明を求めない。わかりやすいところで、文学を文系とするのは、文学の成果を学問的に証明することができないからである。ちなみに学生時代にやっていた国語の読解は証明とはいわない。日本の国語教育はそうなっていない場合が多いと言われているけれど、国語の読解は、文章の論理性を分析することである。分析結果には解ともいえる方向性が存在する。しかしそれはあくまで客観的な論理性の追求によるものであり、実際にその文学作品を作った作者に聞いてみれば、締め切りが迫っていて慌てて辻褄を合わせたものだとか、そんなものだったりする。

 文系的な人は、物語がなくとも、今この瞬間に動いている物語を紡いでいく。明らかな論理破綻の場合もあるが、現在進行形で揺れ動く物語が論理的が正しいかどうかは、その時点で証明することができない。揺れ動く物語が今は非常識だったとしても、いつかの未来ではそれが常識になるかもしれない。たとえば心理学や社会学は、今現在における定点に迫っていくほど、真実が分からないまま次に進まなければならない。正しかったかもしれない理論は、あとから思い出されたかのように検証されるのだ。そしていずれ最も正しいと判断されたことが、学問として、また歴史として後世に受け継がれていく。つまり文系は物語を変容させていくことが前提になっている。そして理系の因果論に対して文系は、目的に応じて物語が変化させていく目的論として捉えられるのではないかと考える。

 最後に、ぼくがずっと文系と理系が曖昧だと思っていた哲学という学問がある。ぼくは理系っぽい数学をやりながら、文系っぽい学問が好きで文系の授業を探して選択していたほど曖昧なまま学生を終えている。そして哲学を文系か理系と言われたら、何かを論じるとき、哲学を因果として捉えて論じるならば理系、哲学することを目的に論じているならば文系だといえるのでないだろうか。

 理系と文系に対するぼくなりの考え方を書いてみた。こういうことを書くこと自体が理系的だという見方もあるけれど、ぼくはそういう概念を超越したいという理想を掲げながら、様々な形式で文章を書いていきたいと思っている。