芸術ではないものに感動しなくてもいい。

 ぼくは情緒が苦手だと思っていたけれど、実はその逆で情緒がないとだめだということに気づいた。情緒の土台を情景とするならば、ぼくは情景を書かずにはいられない。情景というのは、見たそのままや感じたそのままを書くことではない。見たことの背景や、感じたことの理由や背景を書きたくなる。説明したがりとも言える。そしてそれを説明すれば説明するほど、作りもののようになる。せっかく書くなら書いていて楽しくて読む人が面白いと感じる情景を描きたくなるというのが、ぼくの性質だ。(面白いものが書けているかは別の話だけど)


 話を戻すと、ぼくは情景がない文章が苦手なのだ。最近でいうところのポエムが良い例で、ぽんと言葉が並べられていて、何を言っているのか分からない。その分からなさがポエムの魅力なのだとしても、ぼくはその魅力に惹かれない。これはいくら綺麗な人を見ても惹かれることがないのと同じようなものかもしれない。


 ぼくは歌人の短歌や詩人の詩を読むときも、情景が描かれている、分かりやすいものが好きだ。ときに歌人や詩人の書く随筆が面白いのは、とても情緒ある文章だからだと思う。短歌や詩では情緒を閉じ込めたり、敢えて情緒を隠したりするる。優れた短歌や詩は、その限られた文言から、豊かな情景を浮かび上がらせる。そのような人たちが書いた随筆というのは、創作の制約から解放されて文章として描かれた情景が心を打つ。


 ポエムの源流は、歌の歌詞だと思うところがある。日本のポップスは、年代が新しくなるほど、情緒がなくなっていく。また物語性がなくなっていく。歌詞だけを読んでも、何を言っているのか分からない。歌手から思い浮かぶ物語や、幻想として共有される物語に寄り添い、聴き手に自由な情景を思い起こさせることによって、感動を呼ばせる。感動を呼ぶ歌ではない、感動を掻き立てられる歌。聴き手任せの歌。情緒を生み出す力がなく情景を想像できない人にはまったく意味がわからない言葉の羅列が、現在の日本のポップスの本流なのだ。


 芸術のことを村上隆に習い「流れゆく時間を切り取った静止点」とするならば、現代の歌やポエムは芸術ではない。ぼくは芸術ではないものが苦手だったり感動ができないことは、悪いことではないと思っている。