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死に向かっていく姿に惹かれる。

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 人が死に向かっていく姿を見るのは怖い。自分が死に向かっていくのはもっと怖い。それでも、死を考えないわけにはいかない。きっとこの感覚は多くの人が同じで、死の物語に惹かれてしまう。死の物語を使って安易に泣かせようとするなという観客の声は、死の物語の魅力に負けてきた。だから今でも多くの物語で人は死んでいる。死んだことがない人が簡単に人を殺し、物語上の死を作り出す。

 ぼくは今まで小説や映画のなかの死のほかに、死を目の前にした人や短な人の死を書いた本を何冊か読んできた。覚えているところで、永田和宏の「もうすぐ夏至だ」、多田富雄の「寡黙なる巨人」、永沢光雄「神様のプレゼント」がある。永田和宏は、奥さんである河野裕子の死に向かう時間を描いているが、多田富雄永沢光雄は、本人自らの死の、その直前までを描いている。また永沢光雄の「神様のプレゼント」は、奥さんや母親が永沢光雄の思い出や死の様子を描いていて、故人を総括するような本にもなっている。

 ぼくはいつかくる自らの死を、どのように受け止めるのだろうか。何事も当事者になると受け入れざるを得なるということは、なんとなく想像はつく。今以上に、生きたいと思うのかもしれない。座標軸でいうところの、死との位置関係が近くなる感じ。自分の位置が変われば、そこを原点として死を見直すことになるから、そうなったら逆に、死がまだ遠かった過去のことのほうを、分からなくなっていくのだろう。

 もちろん、死に近い人の文章を読んだからといって、死を理解できるわけがない。それはわかっているけれど、今は物語としての死だけでなく、本物の死を描く姿のほうにも惹かれてしまうのだ。