「本」という"売りもの"の不思議

 現在のように本が売られるようになったのは、江戸時代の後半からなのだそうだ。また問屋(取次)が出来たのは第二次世界大戦後、つまり今の書店の形は、つい最近始まった仕組みで、誰かが書いた本を売るという商売は、伝統的なものではないということだ。労働し消費する世代の数でいったら、まだ一世代も回り切っていないことがわかる。実はこれは書店に関わらず、多くの商売が同じであるが、経済発展と並行して、社会の必要に応じて作られてきた商売ということになる。だから日本のように一度経済が発展して、今は維持することにも苦労している状況は、既存の商いが苦労しているということに等しい。書店業界も、その一つということだ。

 ここまでは書店という商いは特別ではないということを書いたのだけれど、しかしなぜか書店は特別なものに感じる。書店は図書館とは全く目的が異なり、国民(市民)のためにあるべきだという議論になることはない。本を売ることができなくなれば、書店はなくなる。なくなっても、本があれば人は困らない。

 「書店」と「本」の間には、結びつくようで、結びつかない何かがある。「本」は必要なものなのだ。ここでたとえば「本」を「野菜」に置き換えたとしよう。「八百屋」と「野菜」の間には、結びつくようで、結びつない何かがある。「野菜」は必要なものなのだ。とまったく同じで脈絡で語ることができてしまう。ということは、「本」とは「野菜」みたいなものだということか。この脈絡で語ると、「財布」でも「iPhone」でも同じになる。

 だからこの脈絡で語ることは間違っているのかもしれない。「本」が他と違うのは、「本」は、売り買いに関わらず、人と人の間で共有できるのだ。しかも「本」という物体がなくても、共有できる。さらには本の内容を記憶してしまえば、究極的には本に書いてあることを一字一句共有することができてしまう。本以外の、たとえば、音楽や映像は本ほど完璧に共有することはできない。本に比べたら、音楽や映像は、記憶して話すといったように共有することはできないのだ。

 「本」は売りものとして、特殊なものなのかもしれない。どうして「本」が売りものになっているかというと、人が必要とする「本」を作る人が、社会の一員として生活できるよう配慮するために、「本」を作ることで商売ができる仕組みを社会が必要としたからだ。だからこそ、常識的に考えて、人が守りきれるわけがない著作権といったものを作った。それで基本的に個人利用の範囲外でコピーして配布したりすることがルール上できないことになっているし、著作権者に無許可の朗読も許されないと思われる。完璧に記憶して口頭で発表したりすることも許されてはいないだろう。

 「本」は誰かに買われることで、「書店」から「誰かの手」に移動する。そして「誰か」に読まれても消滅することなく、文字や口頭で人に共有することができる。「書店」と「人」は一対一だけど、「本」と「人」は一対一ではない。「本」は売りものだけど、売りものとしては効率が悪いものであり、売りものになりきれないところが不思議なところであると思う。