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「最後まで続くことがない"知る権利"」を行使する意味はない。

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 日本人は知る権利がある。このことを免罪符に、社会で起こっている色々なことが報道されている。報道する方も、知る権利に応えているというスタンスである。「知る権利」もそれに応える報道も、人は知りたいと思っていることが前提になっているようだ。しかし世の中の「知りたいという思い」は「最後まで知りたいとは思っていない」とても中途半端なものだ。

 ではなぜ世の中の人は報道(リアルタイムな情報)を必要とするか。理由の1つとして考えられるのは、「自分が当事者になる可能性がある」ということだ。ぼくがどういうときに情報を欲するかというと、自分が「その情報を必要とする当事者になっているとき」なのだけれど、それは自分でそう決めているところがある。もしかしたら自分が当事者になる可能性があるから、そのときに自分がどうしたらいいのかを事前に検討しておくために情報を知っておく必要があると思えば、きっとぼくはもっと貪欲に情報を得ようとするだろう。しかし今のぼくはそうではない。

 自分を含めて誰しも世の中の動きや事件の当事者になる可能性がある。当事者というのは、その出来事に自分自身が関わるだけではなく、当事者を通じてその出来事に関わらざるを得なくなる可能性もある。自分が住む地域で何か出来事が起こることも、当事者の域に入るだろう。しかしそれでも、その出来事を知っている人のほとんどが無関係だ。その無関係な人々は、まるで娯楽としての物語のようにその出来事を消費していく。出来事について知ったかぶって分析する人も、娯楽を作り出す登場人物に過ぎない。

 すこし具体的に書いてみよう。

 日本のどこかで猟奇的な殺人事件が起きたとする。ぼくは、当事者以外が事件そのものをリアルタイムに知る必要はないと考えている。決定した事実だけを伝えるならまだ良いだろうけど、捜索の時点で報道したりする必要は全くない。捜索が報道を使うことは、まだ許せるところもあるけれど、その場合でも報道はただ捜索のためにあるべきである。世の中では常に何かが起こっており、一つの出来事に対して最後まで報道することはできない。しかし、その後判明する事実は当初報道していた事実とは異なることが少なくないという。だとしたら、一時期の間だけ一つの出来事にフォーカスする必要などない。

 殺人は特殊な出来事であり、例えば今日誰かがどこかで猟奇的に人を殺したところで、明日ぼくとすれ違う人が全く同じ動機で猟奇的に人を殺す可能性とは全く無関係である。それでも今日どこかで起こっている猟奇的な殺人についてぼくは知る必要があるかと考えると、ひとつも必要性を感じない。殺人事件は娯楽ではない。犯人の頭がおかしかったとしても、なぜ頭がおかしくなったのか、犯人はなぜ殺人を犯さざるを得なかったのか、いくら専門家とはいえリアルタイムに分析することなど不可能だろう。ニュース番組などで語ったことは、世の中の人の娯楽として消費されていくだけだ。

 無関係な人が行使する、「最後まで続くことのない知る権利」のもとに、当事者の意志とは関係なく、事実らしきことが世間に報道される。「世の中の関心」そのものが報道によって作り出され、「世の中の関心」をフェードアウトさせるのも報道が減ったり他の話題にすり替わることによりなされる。だったら最初から最後まで報道などせずに、事実は知るべき人だけが知り、なぜその事件が起こったのかを然るべき機関が分析して、事件が終結したあとに、その結果が未来の役に立つようにしたら良いのではないか。人が知るべきは、決して当事者のなかでは終わらない事件の、ひとまずの終わらせ方と、事件を生み出してしまった世の中の反省と立て直しなのではないかと思う。