生産性を上げるべきか。有限であるけれど命の時間を考えれば、至極あたりまえの答えが目の前にありそうだが、ぼくはすこし考えてしまう。なぜなら、命は有限であるけれど、いつまで続くか分からないからだ。
例えば、ぼくがブログなどを書くことについて生産性を上げようかを考えたとする。そしてここでは、書くことを命が終わるまで続けると仮定する。すると書くことについていえば、いつ命が終わっても中途半端で終わりを迎えることになる。例えば書いた量や質を数値で表すことができたとして、それが10000だろうと10000000だろうと、量や質の最大値を定義できない以上、その数値が多いか少ないかを問うことができない。このように、書くことに生産性を求めるのが間違っていると仮定して、他の命が尽きるまで続けることが想定できるような行為において、最大値を定義できるものがあるだろうか。
ぼくのブログ執筆環境は、
iPhoneのフリック入力と
iPad mini(
Retina)+
Bluetoothキーボードであることはすでに何回か書いている。これをもしパソコン(
ThinkPadや
Macbook)に変えたら、執筆速度は上がるだろうと推測できる。しかし本を読むための
iPad miniを持たなくなることはないため、結果的に
iPadもパソコンも全てを持ち歩くことになり、しかも出先のテーブルなどでそれらを使うことになる。そういう現実を考えると、やはり違和感がある。ぼくがそれらを使う場所は、自分の家ではなく、あくまで外のカフェなどなのだ。ここまではぼくのなかでの今のところの常識の範囲なのだが、たまに大きな鞄に色々な端末を持ち歩いている人がいる。あまり使わないものも好きで持っていることを想像するが、一瞬一瞬の生産性を最大化するために、必要なものは全て持ち歩くという態度をしているのかもしれないとも想像する。家を持ち歩く、というか書斎を持ち歩く、という感じだろうか。
話を元に戻そう。そもそもぼくは生産性を上げて早く書きたいのか。生産性を上げるための道具を用意したとしても、持ち物が増える以外、何も犠牲にしていないと言える。それなのに、生産性を上げるということに躍起にならない理由はなんだろう。今日は考えながら書いていても、~かもしれないといった仮説すら立てられない。いや、もしかしたら、今の状況で、生産性が低いと思っていないのだろうか。あまり面白くない仮説になってしまったけれど、ひとまず今日は保留とする。