たくさんの本を読むために図書館を活用していた。

 本を読む人が減っているようだ。
 「大学生4割が読書時間「ゼロ」 平均は26・9分 大学生協連の生活実態調査」http://sankei.jp.msn.com/life/news/140226/trd14022620150009-n1.htm

 大学生とは授業で本を読む人たちのことだと思うのだけれど、今は本を使った授業をやっていないということだろうか。と、冗談のように書いたけれど、こういうのも、ぼくは大学に行っているときに、「大学を含む、勉強というのは本を読むということ」という結論を出しているから、本を読んでいないということを堂々と言っているのは、思春期的な天邪鬼なのではないかと思った。

 ぼくはかつて、大学で学ぶことくらいまでは全部本に書いてあることじゃないかと分かってしまった。自分の専門が数学だったので、余計にこう思うところがある。化学や経済などの実践においては、時間の流れが重要で、学問というより研究という意味合いが強いから、本に書いてあることが全てではないだろう。

 大学の話はだいぶ昔のことであり、ぼくは今、日常的に本を読んでいる。学生の頃は今ほどには読んでいなかったけれど、本屋でアルバイトをしていたこともあり、多少は読んでいた。でも、今に比べたら多少だけど、周りの学生よりも読んでいたのかもしれない。

 ぼくは本を読み始めた当時、本にかけるお金をどのように考えるべきかを考えたことがある。本を読まない理由として、お金がないから、時間がないからという理由が一番多いと思うからだ。今のぼくに言わせれば、それは知識欲や生きる力がないということを、お金や時間の問題にすり替えているだけだと言いたいのだけれど、本を読むことによって得られる何かを体感的に知らない人たちには伝わらないことだと思っている。

 本を読み始めたきっかけは、とにかく前向きにならなければ死んでしまうと思ったからで。だから最初はいわゆる自己啓発書といったものや新書が多かった。それらの本を買うといったとき、新書1冊を700円くらいとするならば、おおよそ1食分くらいの値段だとわかる。ぼくは本を読み始めると同時に、ちょうど体重を落としたいと思っていた時期なので、食事1食減らして本を読もうと考えた。本を読むことで今までにない追加出費を出さないようにすることで、本を読む敷居を下げることができた。このことが功を奏して、ぼくは本を読むようになったのだ。知識欲が食欲を超えて、本が読めるなら食事を削るぜ!と格好良く言えればいいのだけれど、そこまで力は入っていなかったと思う。

 さらに本を読み始めてから図書館を活用するようになったので、本を読む量も増やしていくことができた。今はブログを書いたりしているので読む量は減ったけれど、1日に1冊ないし2冊を読んでいたこともある。(ただし以前書いたように、読んだ本の内容を覚えていない)しかしその図書館について、ぼくは本屋でアルバイトをしていたことから、本を書く立場の人たちや本を売る立場の人たちにとって図書館は敵対するものと捉えている節があった。しかし読者であるかぎり、それを気にする必要はないと思うようにしている。本の作者に対して、読まれた数と同等の報酬がいかないという意味で、図書館の本を読むことに抵抗がある人もいるのかもしれないが、その抵抗は本を読まなかったという結果しか生まない。ぼくは何が正しいのかを考えながら、図書館を未だに活用している。結果的に自分の収入では買いきれないほどの本を読んでいる。

 図書館を活用してみないとわからなかったことといえば、絶版になった本が図書館にはあるということだ。たとえば、絶版した本はもう作者に利益を与えることが不可能ということもあり、こういった本であれば図書館にある本を読むことへの抵抗が和らぐかもしれない。無理やり考えてみたけれど、現に図書館は存在していて、誰にでも拓かれているものだ。存在するものを敵視したり無視することもないだろう。

 なんだか図書館の話になってしまったけれど、何にせよ、本を読むことは楽しい。本を読むのは大変だ。時間は取られるし、お金も取られる。本を読んでいるときは人と話しをすることができないように、他の楽しいことができない。しかし本を読むことの楽しさに気づいてしまったぼくは、他の何にも変えられないと思っている。それからぼくは、そんな本を作りたいと思うようになっている。