恋愛における「告白」という壁

恋愛における「告白」という行為は日本独特な作法らしい。真実性はさておき、今日は「告白」というものを考えていた。

相手(以下、ここでは異性を恋愛として)を好きになってしまうと、とにもかくにも好きだということのほうが優先され、次第に相手の領域に縛られ固定されていく。相手に対してちょっとした違和感があったとしても、それがあっても好きなのだといってさらに強く固定されていく。カチカチに固定されたあとに起こるのは、ひび割れや欠損である。ひび割れや欠損は、くっついたとしても、その痕は消えない。逆に柔軟な粘土のようなものであれば、伸びる幅は残っているし、たとえ切れてしまっても元に戻すことができる。それほどに、固定されることは危ういことだと、ぼくは思っている。

どうして人を好きになることがこんなに不安定なことなのか、それは実行するかしないかは分からないが、それでも一度は考える、相手への「告白」というイベントがあるからではないかと、仮説を立てている。男女の関係において多くの場合、「告白」というイベントを乗り越えなければ恋人になれない。好きになったことをきっかけに、恋人として認めてもらうことが一つの目標になっていく。「告白」は、異性との関係においては人生の一大事となる。この人生の一大事である「告白」は、相手の好き加減が一定の閾値を超えなければ実行に移すことができない。恋人になることより「告白」というイベントに向けて、好きという意識は無用に高まっていき、どんどん相手に固定されていく。もちろん「告白」までの間に幻滅することがあるかもしれないけれど、それはまだ固定しきっていなかったということ。しかし相手に固定されていく方向に進んでいたことは、間違いない。ここでいう「相手に固定される」というのは、逆ではないかと思うかもしれない。自分から好きになっているのだから、自分が相手に固定されているわけがないと。でもその、自分中心に考えさせられていること自体が、相手に領域に固定されていっている証拠なのだ。

しかしここまでの話しは、「好きになって告白する側」のことである。では「好きになられて告白される側」はどうだろう。自分に固定されていく相手に否が応でも気づくこともあるだろうし、「告白」に向けて隙を一切見せない人もいるかもしれない。一切相手に近づかず、妄想だけで「告白」への閾値を超える人だっているだろう。前者の場合は、駆け引きみたいものがあるのだろうか。

そして、お互いに好きなことが分かっていて、お互いが意識してしまっている状態もある。「恋人未満」みたいな関係にもなっていく。このような関係が生まれるのは、まさに「告白」のせいである。「友達なのか恋人なのか」なんて本当は関係ないはずなのに、「告白」があることよって、妙な駆け引きをすることになる。

では、無用な駆け引きまで生んでいる「告白」がなぜ存在するのか。それは女性にとって、恋の駆け引きをしているときが一番楽しく、幸せの振れ幅が大きいからである。「好きな相手が自分のことを好きなのかどうか確定していない状態」を楽しむのが「恋」というもの。つまり言ってしまうと、「告白」というイベントがないと恋人になれないのは、女性のせいなのだ。

男性のぼくは男女の関係をこう考えている。それは男女の恋愛未満の関係というのは、あり得ないと考えている。今いるぼくの友達にどう思われるかは分からないけれど、ぼくは恋をしていない人と自分の時間を消費するような関係を持ちたいとは思わない。相手がぼくの好きに答えるか答えないかは、通常は関係ない。なぜならぼくは絶対に「告白」をしないからである。女性が「告白」という壁を持っていて、ぼくは自分でそれを乗り越えない。ぼくという人間は、「告白」の向こう側には行くことができないのだ。これは男性としてのあきらめであり、ある種の決心でもある。

男性でも女性でも、「純粋に人間として好き」みたいなことを言っている人は、自分に嘘ついている。女性は意識的にか無意識にかは分からないが、その嘘を信じているかもしれない。男性はそれほど自分のことを信じていないのではないかと思う。言い方を変えれば、「相手を恋愛対象にしない」という嘘をつき通すという拘りが、男女の安定した関係を生むことがあるということだ。そしてそれが「友達」というのであれば、そういえば良いと思う。