人を好きになるということ〜愛するということ。

人との関わりがない生活をしていると、人を好きになることがわからなくなる。また好きになることの逆の、嫌いになることもわからなくなる。別にそんなことわからなくてもいいじゃないかと思うこともあるが、わからないということを考えてしまうのだから、しかたがないのだ。
 
そうなってしまう原因の一つはまず、ぼくが好きや嫌いに対して自覚的になろうとしてしまうからだろうと考えている。「好きな人」とか「嫌いな人」とか、実体がないことに対して意味付けをしようとする。「あの人が好き」「あの人が嫌い」がなく、そういう感情が希薄なため、感情が暇を持て余してしまい、「あの人」が居ないことが心の隙間となってしまう。ぼくはその心の隙間を「いない」という言葉で埋めるのだ。しかしどうして「好きな人がいない」し「嫌いな人もいない」とか、いちいち考えてこんな風に書こうと思わなければいけないのか。
 
人間とは、例外はあるにせよ、人間は男女のつがいになることが動物的な本能であり、そのために考えるべきことは否が応でも考えさせられてしまい、結果的にどうにかして異性のつがいを見つけようと努力してしまう動物なのだろうか。
 
今これを書いている途中、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」という本を思い出した。愛とは技術であるという考え方を基本としている。これは最近気になっている芸術というものに対しても同じなのだけれど、ぼくや、恐らく多くの人は、人間として本当に大事なことは人に教えてもらうことができない。(ちなみに「Art」の日本語訳は「技術」)人間として本当に大事なことが、個性というものに預けられてしまう。人を愛するということや、芸術を嗜むといったことを、目の前の親などの姿を見ることでしか学ぶことが出来ない。だから親同士が愛し合っていなければ子どもは愛について見たように学ぶだろうし、芸術を評価できない親であれば、子どもは自分で気づくまで芸術を知らないままである。
 
愛することや芸術と対峙することは、人間の能力の使い方、つまり技術であることをぼくは偶然知ったわけだけど、ぼくは何かのきっかけで必要を感じて学ぶことになっただけで、そのような暇があるからでしかない。しかし学んでいるといっても、ぼくには実践の場がないことから、身につけることができない。それは今このブログを書いていて、学んだはずの内容を覚えていないということから、ぼくは身を持って理解することができないということがわかる。子どもの頃に何かきっかけがあり学んだことも知らずに身についている人との違いは、あまりにも遠い。技術だと分かって学ぶことだって、虚しいことなのだ。
 
子どもは自分の親と同じような親になる。だから虐待のある家庭に生まれてしまったら、親からの虐待を愛を認めなければならなくなり、自分が親になったときの愛の与え方が親と同じ虐待することとなってしまい、虐待の連鎖を断ち切ることができないという分析がある。しかしそれは本来、どうにかなる問題なのだと考えている。どうにかするのが社会であろうとも思う。
 
愛とは人の感性や感覚によるものであり、それこそ個性であり、他人には立ち入ることができない領域だとして放置するのは、社会の怠慢だと思う。親から愛を教わることができない子どもには、誰かが教えなければならないのだ。愛を教えられない親が数多く社会にいる世の中を作ってしまったことは今さらどうしようもないけれど、これからでも教え始めれば、その世代の子どもからは生まれ変わることできる。とはいっても、今は教えられる人がいないのかもしれない。だとしたら最初は誰もがフロムをはじめとする既存の思想や古典から学ぶしかないだろう。
 
今日はなんだか、どんどん関係ない話しになってしまった。