東京都知事選挙のこと。政治家は一人しかいなかった。

明日また東京で大雪になるらしい。ぼくは子供の頃から、台風でも大雪でも社会をいつもどおりに動かそうとする雰囲気に馴染めないできた。天候に応じて社会が臨機応変に停滞できる世の中というのは、ぼくが生きているうちに実現するだろうか。もしくは電車とか交通機関の需要がなくなるくらい小さな世界にダウンスケールしたほうが救われる人が多いと思うのだけれど、そんな幸せは誰も求めていないのだろう。

最近こういうことを書いていないけれど、ぼくは自分が考えていることが特殊だとは思わないようにしていて、ぼくのような考えをしている人はたくさんいるということを前提にしている。でもそれは多数派というわけではない。ぼくのことを「お前だけだよそんなこと思っているのは」と言われても、そう思う人がいるなら、そう思わな人もいるだろう。当たり前のことだけれど。

先日の東京都知事選挙のことを思い出したのだが、選挙権を得てからというものの、ぼくなりに自分の考えを代弁してくれるような政治家はいないものかと調査してきたけれど、小さなことではさっき書いた天候と社会の在り方のような点と、いくつかの普遍的な問題への回答がぼくの考えと一致する政治家がいないので、いつもまあ、そのときそのときに気になった立候補者に投票することになる。今回の場合、政治家として見たとき、政治家に見えたのが舛添要一だけだった。官僚に見えるのと政治家に見えるのも違う。政治家じゃなければ何かというと、言葉は難しいけれど、思想家のようだと思っている。だから政治家に投票しようとしている人は、他の立候補者には目もくれなかっただろう。政治家は嫌いだと思っている人は他にも目を向けることができ、あとは好き好きという感じである。と、今自分で、あとは好き好きと書いたところで、思想家という言葉はそう遠くないと思った。ちなみにぼくはこの政治家には投票していない。

インターネットでの選挙活動というのは、インターネットの影響は広く薄くであることから、地方選挙のような場合にほとんど効果がないと思う。衆参議員選挙も、今のところあまり効果はないと思うけれど、地方選挙よりは可能性がある。東京は日本の人口の十分の一くらいなので少しは効果があるとは思うけれど、インターネットに出てしまうと、東京に関係がない人が十分の九いることになるので、影響が薄くなるのは当然ともいえる。しかも当初から有力候補とされている立候補者にとっては、インターネットは邪魔でしかない。すでにいる支持者を起点にアピールしていく人海戦術の方がよほど効果的ということだ。それでもぼくのような普通の有権者は立候補者を見ることもなく、声を聞くこともなく、インターネットやメルマガ、いくつかの新聞などを通して情報収集をするしかない。インターネットといってもリアルタイムの選挙活動はあまり見ていない。なぜなら、断片的に流れてくる情報に右往左往されても良いことがないし、時間がかかってしょうがないから。やはりインターネット、とくにリアルタイムウェブは時間をとられるところが難点だと思う。だからといって、恣意的なまとめを見に行きたいとも思えない。

今日は電車に乗りながらiPhoneで書いていて、元のタイトルはアドラー心理学のことだったのだけれど、全く違う内容になってしまった。