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自己啓発の源流としてのアドラー心理学/「嫌われる勇気」(岸見一郎、古賀史健)

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朝から遠方に行くことになり、新幹線の中でしばらく読んでいなかったcakes(http://cakes.mu)を読んでいた。すると、最初に読み始めた「嫌われる勇気」の連載に釘付けになった。もう連載は終わっていて、書籍にもなっているが、ぼくはcakesで読んだ。(全文が書籍になっているかは分からない)
 
cakesは週か月の課金で、課金している間は過去記事全てを読むことができるので、読めるときに支払いをすればいいのだけど、ぼくは初期からずっと支払いを続けている。今ではかなり多くの著者になって、記事数も3000を超えている。著者への報酬はクリックされた量などを鑑みて分配しているとかどこかで見たけれど、支払っているのにたまにしかクリックしていないぼくのようなユーザの分はどこにいくのだろうか。
 
今日は移動時間をかけて「嫌われる勇気」を読んでいたのだけれど、これはユングフロイトと並び、心理学の三台巨頭と言われるアドラーの心理学を元に、青年と哲学者の対話形式で話しは進んでいく。
 
このアドラー心理学は、自己啓発の元祖にして到達点であるともいう。その根幹は「人は変われる」である。
 
「嫌われる勇気」については、もう少し自分なりに読み砕きたいのでひとまず置いておき、「自己啓発」の源流だと言われていることを踏まえて、自分も読んできた「自己啓発書」について少し考えたので書こうと思う。
 
この「嫌われる勇気」を一通り最後まで読んで上で、まず、「自己啓発書」を読む前に、この「嫌われる勇気」を読んで欲しいと思った。タイトルの「嫌われる」という言葉と「勇気」という言葉の組み合わせに違和感があるかもしれないけれど、内容は逆説的なことを語っているわけではない。(読んだから、そうだったとも言えるけれど) 
 
すでに「自己啓発書」を読んだことがある人は、なぜ「自己啓発書」なんてものが書かれるのかということが、よく分かると思う。実際に「自己啓発書」を書いている人たちがアドラー心理学を知っているかは分からない。しかし、アドラー心理学の要素が当てはまるような人でないと、「自己啓発書」に書かれるようなことをわざわざ自分で書こうと思えない思う。この感覚は、アドラー自身が「自分の名前や存在など忘れ去られくらいに、普遍的に共有される概念であるべきだ」と語っているとおりである。
 
そしてまた、「自己啓発書」を読んでも一向に成長できない人のその理由も分かる。「自己啓発書を実践して語りたい人」と、「自己啓発書を読んでも成長しない人」との隔たりが、まさにアドラー心理学で分かりやすく紐解かれていく。
 
ここで自分と「自己啓発書」のことを振り返ってみると、いつも書いているが、読んだ本のことはあまり覚えていない。先にアドラー心理学を知っていれば読み方も変わっただろうにと思うけれど、アドラー心理学を知った今、その過去はもうないものになる。ないというのは、「無」ということだ。あるのは今だけ。今を変えるためにぼくは「アドラー心理学」を読むことにする。その理由はまず、ぼくにとって面白いからである。ユングフロイトは実際ここまで面白いとは思わなかったし、そういう意味でこれらもあまり覚えていない。
 
アドラー心理学を身につけるには、生きてきた時間の半分が必要になると書かれている。今30歳なら、身につけようとしなが生きていって45歳で完成するということだ。それはおそらく、それまで身につけてきた心のあり方(アドラー心理学でいう「ライフスタイル」)を入れ替えるのにはそれだけかかるということだろう。ぼくはそこまでかける気はないし、それにぼくは並行して面白いことをやっていきたいので、そのままをなぞることはしない。それに、ぼくのブログなどを読む人に役立ててもらえるようにもしたいから、身を持って咀嚼していくスピードも早いのではないかと思う。
 
時間がきたので終わりにするが、とにもかくにも、「アドラー心理学」は多くの人に読んでみて欲しいと思っている。