「創作している自分」を書いている。

ここ数日、個人的にやっていたTwitterを控えて、Twitterにつぶやこうとしたぼくのことを書き溜めていた。すると、つぶやかないで捨ててしまうようなことも、「自分」という枠を外せば、1つの文として、ぼくが書いたものになることに気づいた。Twitterにつぶやくために書くという意識は、ぼくの言葉を狭めていたかもしれない。

しかし日常的に話せる人がいないぼくにとって、Twitterは人との会話が生まれる場所として、とても大事な場所だとも気づいた。言い方は悪いかもしれないけれど、会話という体験を文字にできる場所として、Twitterは今のぼくに必要だと思っている。

Twitterで会話をしているほとんどの人は、ぼく自身を認識していない。そのような人たちにとって、ぼく自身が何をしているかなんて、きっと興味がないだろう。今のところぼくのことを文章以外で認識している人が世の中にほとんどいない。いまさらぼくがしていることを書いたところで、それは架空の人物が書いていることとなんら変わりがない。誰も自分のことを人間として認識してないにも関わらず自分のことを書いていると、視線がiPhoneの画面を離れたときに、現実の虚無に覆われてしまう。

それでもぼくはそんなことで感情はなくならないし、このブログを含めて、何かを書かない理由にはならない。それどころか、より創作に偏っていきたいと思うようになってきた。ぼくが書くことを創作という枠に広げれば、それはどこまでもぼく自身に近いこともあるだろうし、まったくぼく自身にないことがあってもいい。そんな虚実が混ざったぼくの創作をフラットに存在させたい。さっきの話しを繰り返せば、ぼく自身が認識されない以上、ぼく自身のことだろうとそうでなかろうと、読む人には分からない。

ここまで書いていて気づいたのが、そういうものをエッセイというのではないだろうか。ぼくが好きなエッセイは、虚実があやふやな不思議な雰囲気をもっているものである。ぼくはそういうものが書きたいと思っている。到達地点はそこだけれど、ぼくはこのブログを通じて、そういう自分のことについて書いている。今これを書いているぼくが一体なんなのかはよく分からなくなってきたけれど、一歩引いてみてみると、これは、「創作している自分」のことを書いているようなものなのかなと思った。

だから、このブログとは違う何かがぼくの創作になるのだろう。以前は気まぐれで小説やエッセイみたいなブログを書いていたけれど、このブログにように、ある程度コンスタントに書けるようになりたい。しかしまだこのブログを終わらせる気持ちもないので、今の生活に創作を加える工夫をしなければいけない。これはTwitterのやり方を変えただけではとても足りそうにないけれど、少しずつ書いて、すこし前から気になっているpplogあたりでに載せることから始めることにしたい。