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正しく誤読に気づくことができた。

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今までぼくはほとんど意識していなかったのだけれど、今日、読んだメルマガの誤読をメルマガの作者である岩崎夏海さんから指摘を頂いて、自分が誤読をしていることに気づくことができた。(いつもは著名人の方を敬称略するけれど、岩崎夏海さんはTwitterでリプライをしているので、もう敬称略にはできない) 他人に誤読を指摘されても、たぶんぼくは素直に受け取らなかっただろう。だからこのように正しく誤読に気づけたことは、とても幸せなことであるし、Twitterをやっていて良かった。これからも書いていきたいという気持ちも、より高まってくる。

メルマガを読んで同意見だというコメントをつけてリツイートしたわけだけど、同意見といった部分が全く逆の理解だったのだ。全く逆の理解をして、自分は同意しているといい、さらに補足の意見まで書いている。今回はぼくが誤読して指摘をもらい、その誤読したことについてさらに興味を持つことができたという意味では、ぼくの誤読は悪いことではなかったと思う。

しかしぼくは本をわりとたくさん読んでいるし、雑誌やいくつかのメルマガ、Twitterも読んでる。そんなぼくはいったいどれくらいの誤読をしているのだろうかと思うと、気が遠くなってくる。いちいち指摘されてたらさすがに腹が立ってきそうであるが、その向き先は自分の理解力だと思うと、情けなくなる。誤読していると疑って読むことには全くもって意味がないので、そこまで深くは考えるつもりはない。

誤読については深堀りしたいテーマになってきているけれど、今の考えとしては、誤読というのは恐らく、それを読む前提が大きく影響するだろうと考えている。前提というのは、まず持ち合わせている知識や経験、また読むときの気分、もっと細かく見れば、直前に読んでいたものがなんだったかというのもあるだろう。色々なものを読み、ふむふむと納得しているうちは、頭の中は自分の基本的な思想や考え方にそのまま吸収されていってしまうから、確実に自分が思うようにしか理解してないということも、容易に想像できてしまう。

誤読をしないためには、を考えていくのは少しもったいない気がするけれど、誤読をする仕組みを理解して、身体的な感覚として、書かれているものを理解する態度については、変えることができるかもしれない。これは自分が書いていることを、できるだけ正しく理解してもらうためにも必要なことかもしれない。こう書いたら誤読されるかもしれないということが自分で分かって直すことができるようになれば、自然と人に気持ち良く読んでもらえる文章になっていくのではないかと考えている。