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自分の情報が積み重なる場所(2)

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昨日自分の情報が最も集まる場所は家だと書いた。その続きを書こう。

家というのは、ぼくが過ごしてきた情報が蓄積してしまった空間である。ぼくにしか分からないことが溜まっていて、それは空気のようなものだけど、喚起ができない。家そのものや、家具や物に染み着いてしまっている。過去の引き出しは、自分の頭の中より、家の中にあるのだとさえ思う。

社会の要請で人は定住するようになって、さらに日本は一人で住むことを許している。さらには一人で生活することに困らないよう社会を整備してきた。国の政策として一人暮らしを許さない国があると聞いたことがあるし、文化として一人暮らしは絶対にあり得ないという国もある。日本人は孤立を求めて、その通りになっただけなのだろう。

人は一人では生きられないし、人は一人で生きているわけではないというのは理解できなくもないが、一人で生きている気がしてしまうような、そういう環境にあることは確かである。そうでなければ、「君は一人じゃない」みたいな言葉がはびこるわけがないのだ。こんな言葉が必要なことが、とても寂しい。ぼくのわがままな本音を書くのなら、「一人だなんて言うな」というならば、「そう思わせるような状況にぼくを放置しないでくれ」とさえ思ってしまう。

そんな生身の人間の雑多な情報が溜まっていくのが、家なのだ。だから引っ越しを繰り返す人の精神が何となく分かる。家にいることで、自分の情報が自分を覆ってくる。家を変えれば自分を覆う情報をある程度解放することができる。

ぼくが家に居られないのは、自分の情報に精神が負けてしまうのかもしれない。逆に勝てているときというか、精神的に勢いがあるときは、嫌な情報を避けたり捨てたりすることができる。しかし情報から逃げるのに最も手っ取り早いのが、家の外に出ることだから、ぼくはついそうしてしまう。外には、ぼくに何かを考えさせる物ものがない。自分から能動的に何かをみたり本を読んだり自分で書いたりしない限り、自分の情報に晒されることがない。そのかわり、外界の情報に晒される。昨日の話しでいえば、外界の情報はフロー的な情報だから、見た瞬間に解釈して、行動するなり無視をすれば終わりである。

ぼくもかつてそうだったが、家にいてもネットを徘徊して終わってしまうという生活をしている人も、もしかしたら家にあるストック的な情報から逃げて、家でもフロー的な情報だけに集中しているということかもしれない。

ぼくの家には、必要のない情報が多すぎる。明日はまた少し片づけてみよう。