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自分の情報が積み重なる場所

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今日は朝起きるのが少し遅くなり、移動しても眠気がおさまらずうとうとしていたので、ニコ動で岡田斗司夫の「ドラッカーよりもハインラインを読め!」を見ていた。

これからの時代は「ドラッカーよりハインラインを読め」ということの真意を端的にいうと「今あるものを考えるのではなく未来を予測するべきだ」という意味合いである。ドラッカー的な「今あるものを考える」とハインライン的な「未来を予測する」の間には、かなり深い隔たりがあるのだけれど、その本質がハインラインなどのSF小説を読むことに隠されている。ぼくはこの段落の最初に「これからの時代は」と書いたけれど、別にこれからの時代を考えない人にとっては、全く関係がないことだと言えるかもしれない。

ニコ動の話しはここまで。見たい人は期間限定で無料のようなので是非。

ネットではTwitterを代表として、フロー的に情報が流れることが当たり前になってきている。だから今更ストック的な情報としてのブログが比較されたりする。元々ネットは今でいうところのブログだけがある世界だった。従来からあるテレビや新聞なんかも情報に関していえばフローなメディアだったので、ネットがテレビ的なマスメディアの役割を内包するようになり、マスメディアの情報を求めてネットを見る人が圧倒的になった今、意識する人もほとんどいないのだろう。つまり、ネットがフローだとかは、昔からネットにいる人だけが言っているということ。

フロー的に流れていくという考え方は、それはあくまで他人の情報だからフロー的に流れていると捉えることができるだけだと考えている。新聞やテレビと違うのは、新聞やテレビは、その情報の当事者である場合のみフロー的に流れていく情報ではなく、自分に関係する情報となるのだが、ネットでは自分が発した情報も自分が関係する情報として記録されてい。つまり発信することで当事者になる。もちろん、他人の情報をコピーすることはフローと変わらない。もちろん自分が発した情報も、他人にとってフロー的に流れていく情報である。ここでは自分に関係する情報のことをストックとは言っていないが、自分に関係する情報や自分が発信した情報は、自分自身にストックされる情報と捉えても間違いではない。

個人が発信する情報めいたものをメディアが発信する情報と同列にすることに抵抗があるかもしれないが、それは情報を主体に捉えているからである。個人を主体に捉えれば、個人の日記みたいな文章も、ある人には情報になるし、ある人には情報にならない。その意味では、メディアの情報も個人の情報も同列である。

ここでネットから離れて考えてみる。

すると、生活している家が、最も個人の情報が積み重なる場所といえる。しかもネットのように人に見せるようにカスタマイズされた情報ではなく、生身で雑多な情報がストックされていく場所と考えることができる。

さすがにこの話しは、よくわからない人が多いかもしれない。ぼくが家という空間をネットの空間と同列のように語っているのは、ぼくが家に「独り」でいるからである。つまりネットも家も「独りの空間」であるという意味で同じであるから、同じ目線で考えることができる。

自分の家に家族がいたりする人にとっては、ぼくのようなことを考える必要がないのかもしれない。なぜならそういう人にとって家とは、自分だけの空間ではない。家族を含めた他人がいることが生きていくことの前提となっている。それに、ぼくにとっての家が「独りの空間」だとして、ネットでさえ関係する人がほとんどいない人なんて、あまり想像できないのではないだろうか。3ヶ月以上続けているぼくのブログを見ていても、ぼくの人間関係が出てくるようなことがないことが物語っている。

しかしこれからの時代、ぼくのように独り淡々と家とネットのなか生きていくだけの人間が増えていくのではないかと思うと、考えずにはいられない。ぼくでさえこれで生きているのだから、ぼく以外にもこういう人がたくさんいると思うのが正常な感覚だろうと思う。