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癒しの言葉から距離を置く。

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ポエムという散文がある。印象的な言葉を自由に並べて、人の心を癒やしたりするものだ。あからさまに、人の心を癒やそうと見て取れるポエムも多い。(ワタシはキミのことを知らないけど)「つらいよね?でもだいじょうぶだよ」系のものだ。()は恣意的に思えるかもしれないが、ぼくがこういう「ポエム」を見て思うことはただひとつ、言っている人は相手のことを考えてないということだ。だから安易な言葉を並べる。そもそも、相手が見えないわけだから、考えられるわけない。しかも弱っている人、この安易な言葉に負けてしまう。心がない言葉は無機質で強い。

昨日も書いたけれど、ぼくは「言葉の強さ」に敏感なのかもしれない。

ポエムをこういうもので括ってしまうのは気が引けるけれど、この記事ではこういうものをポエムとして書いていく。

言葉によって癒やされるということは、気持ちが安らぐということだろうか。ぼくはポエムで癒やされるという気持ちが分からない。さっきの「つらいよね?だいじょうぶだよ」を見て思うのは、「これ言ってるの誰だよ」ということだ。ぼくにしてみると、人の心がない言葉だ。人の心を宿すことを怠っている安易なやり口だとさえ思ってしまう。

「だいじょうぶ」なんて無責任なことが言えるのは、関係している人に対してだけだ。どうすれば「だいじょうぶ」になるか、わかってあげられる人だけだ。そこには対人関係がなければならない。

しかしTwitterなんかを見ていると、出元も宛先も不明な、癒し系、励まし系のツイートが数多くツイートされ、リツイートされている。自分が癒されたから、みんなにも振りまいてあげようという感じだろうか。

ぼくが思う、他者を通じた癒やしとは、「共感」だと考えている。共に感じるのであって、共感する言葉がない、言葉を並べただけの「ポエム」は、癒やしに値しない。

ぼくは「小説」や「短歌」を「ポエム」とは違うと思っている。それはなぜかというと、「小説」の言葉は、宛先がいる。小説の登場人物は読者のほうを向くようなことはない。当たり前だが、小説の中の登場人物を向いている。小説からぼくたちが得る感動は、登場人物たちへの共感である。「短歌」はどうか。短歌も読者には何も問いかけない。短歌は作者が創りだした情景だ。短歌を読む感動も、生み出された情景への共感と言えるだろう。

だからぼくは、「小説」や「短歌」は受け入れるけれど、「ポエム」は受け入れられない。