もっともっと語りたい。

ぼくのような思考の傾向を持つ人間は数え切れないほどいるだろう。このブログも特別おかしなことを書けるわけではない。ぼくのようなタイプの人間が考えがちなことを淡々と書いているので、もしかしたら頷いてくれている人もいるかもしれないと思っている。

そんなぼくがときおり陥る命題、いったい自分は何者なのか、という命題がある。

子どもの頃に、ふと世界のなかに一人取り残されたように感じて、全てのことがどうでもよく思い始めた、などというのは、子どもの頃の自分がそうでなければ今の自分がこうであるはずがないという思考回路による過去の改ざんである。ぼくは、子どもの頃のことをあまり覚えていない。むしろ思い出したくないようなことしか覚えていない。

だから結局ぼくは何者でもないのだ、としたら、ぼくはいないことと同じだ。きっと何者かではある。その何者かは、現在進行形で書き続けているこのブログがよく表している。このブログに書いてあることがぼくの書けることのおおよそ全てだと言ったら、薄っぺらいだろうか。毎日ちまちま考えていることを切り取って書いているのだが、本当に意味のない睡眠や食事や性的(?)なことを除く思考の80%くらいは書くためといって良いだろう。80%のうち書かれるのは、書くことがなくならないで欲しいという願いも込めて、今のところ5%くらいという感覚である。書くということはブログだけもない。

眠いとかお腹すいたとか、本当に意味のないことは、個人的なことしかつぶやいていないTwitterに流れている。このTwitterを合わせれば、ぼくの90%以上がインターネットに漏れ出そうな状態ということになる。

80%とか90%とか書いている割合の基準はぼくの感覚でしかないのだけど、この中にいわゆる会社関連のことは、含まれない。残りの10%の中にある。ぼくはこのように度々会社関連のことを脇に逸らすのだけど、それには理由がある。

働きたくなんかないということは置いておいて、会社のルールで行動していて守秘義務を守らなければならないようなことは、もはや自分のことではないと考えているからだ。ぼくの口から話せないこと、ぼく自身が書けないようなことを、ぼくは日々熱心にやっていて、サラリーマンのほとんどがそうだろう。会社のことで本当に大事なことは書けない。ぼくはこういうことを自分の人生に含むことができないでいる。働くことが人生だというには、会社の仕事は語れないことが多すぎて、ぼくを鬱々とさせる。

翻って会社の視点に立てば、こんなぼくはなにかに毒されているわけだ。曲がり間違えば、意識高い系の空気が読めない社会人となる。ぼくももし会社でぼくのようなことを口に出す人がいたら、なにかに看過されちゃったんだなと思う。さらにいうと、会社で反会社的(反社会ではない)なことを口走るようになっているという状態が一種の洗脳なのだと思う。ぼくがそうならない理由は、うまく言葉にできないから、小心者だからということにしておく。自分が知っていることを声高らかに語れる無垢な勇気もまた、洗脳のようなものだ。

ぼくの人生において、会社で働いているということは、割合でいうと5%くらいで存在しているということだろうか。1日の中の働いている時間に比べて割合が小さい理由は、会社について語るべきことがそのくらいしかないからだ。

書いていて気づいた。ぼくの人生の重さ、ここでは比重というべきだろうか。それは語るべきことの重さであった。ぼくは語るべきことに重きを置いて生きていきたいのだ。

今まさに、このことに気づいた瞬間、大きく視界が開いていくような気分を得た。ぼくはもっともっと語りたいのだ。