走ることで明らかになること。

朝からずっと家に居たこともあり、2週間ぶりに外を走ってきた。夜は寒いので、少しでも暖かい昼間にと思ったけれど、今日の東京は昼間でも6度くらいだったようだ。
 
ランニングは12月から週1にしていたのだけれど、今日は2週間ぶりで、体力が衰えていることを感じた。ランニングというのは、ゼーゼーしない程度に走ることで、いかにゼーゼーしないで速く長く走れるかである。ぼくは30分で5〜7キロ走れるようになって、それ以上は求めないのだけれど、このペースでいくと、フルマラソンを4時間以内に走れることになる。もしフルマラソンを目指すなら、今の速さで長く走れるようになるトレーニングが必要となるだろう。とはいうものの、今日は1キロも走らないうちにゼーゼーが始まり、あー、これはダメだ、と思った。ランニングのスパンを上げればすぐに元に戻るだろうけど、冬場は昼間に走った方が良さそうなので、しばらくは週1にとどめておく。春前になってきたら、また週2〜3に戻そう。
 
ランニングは始めて1年と少し経つのだが、当時なぜ走り始めたかというと、元々筋トレに飽きてきて走ろうと思っていたことと、走ることで鬱的な症状を抑制することができるということを知っていたからだと振り返ることができる。もちろん悩みが吹き飛ぶようなことはない。嫌なことがなくなるわけでもない。しかしはっきりと分かったのは、自分が何に悩んでいるのかが明らかになるということだ。
 
走っている最中、最初は体の調子などを気にしているけれど、次第に走ること以外のことを考え始める。考えることはというと、走るしかない状況では、答えのないことについて考えを巡らせようとする。普段はいつでもiPhoneiPadで検索したりして、解決方法を探ろうとする。ちょっとした悩みでも、同じような悩みの人を探したりしてしまう。走っている間はそれができない。すると自ずと、どこを探しても答えがないようなことをグルグル考える。
 
このグルグル考えることの内容は、実はあまり多くはない。もしかしたら、ぼくが本当に悩んでいて解決したいことは、あまり多くないのではないかと思う。それ以外に普段悩みだと思っていることは、あまり重要ではないのかもしれない。例えば、ぼくはこのブログを始めた当初、毎日書くためにはネタを考えなければいけないと思い、走っているときに考えることにしていた。しかしそれも次第に考えなくなる。なぜならブログを書こうと思ったときに、書くことを思いつくことができるようになったからだ。答えなどなくても、自然と解決することもあるのだろう。
 
それでも今日走っているときに分かったのが、いつまでも同じことを考えているということだ。ブログの話はすぐに解決する話だったけれど、そう簡単にいかないものが、いつまでも残り続ける。あまり気にしていなかったけれど、毎日走っているときは、毎日のようにその悩みが襲いかかってきていたともいえる。今日は2週間ぶりだったけれど、またこのことを考えるのか、と走りながら少し落胆したのも確かである。今のぼくでは一生解決しないのではないかと思うようなことだけれど、ぼくの悩みなんてこれくらいだと思うことで、やり過ごしている。それに、自分のことだけしか悩みがないなんて、幸せなことだろう。
 
走っても走っても、前に進むわけではない。走って疲れ果てることに意味はない。しかしぼくは普段の生活の中で、意味がないことをやるということを意識的にできないのだ。なにもしないことをする、という言葉があるけれど、それがぼくにはできない。なにもしていないということが怖いのだ。なにもしていないと気づいてしまうと、絶望したかのように落ち込む。ランニングに意味はないし、時間の浪費という意味でも、なにもしていないことと同じなのだけれど、不思議と走ってしまったというような絶望感はない。だから1年以上も続けているのだろう。
 
 

*1:Ikeda sports library