引き続き雑誌関連を電子化している。毎回捨てればいいと思うのだけれど、捨てられない。捨てられない以上に、今日もまったく見覚えのない雑誌が見つかったり、読んだはずなのにまったく覚えていない雑誌が見つかったりと、やるせない気持ちになりながらの作業となった。電子化している雑誌のナンバーや発行日を見ていると、最近になってまたいくつか買うようになったけれど、2012年後半から2013年の後半くらいまで、あまり買っていなかった。かつては、QuickJapanやオトナアニメ、リスアニなど定期的に買っていた雑誌があるけれど、これらは途中でやめている。
覚えていないような読書に意味はあるのだろうか。すぐに捨てればこんな思いをしなくて済むのだけれど、捨てられないのだから当然家のどこかに積みあがっていく。
逆に覚えている本もある。雑誌ではないれけど、小説は覚えている。物語の記憶は正確ではないかもしれないけれど、小説は表紙を見ただけで鳥肌が立ってしまうようなものもある。身体が感動を覚えているような感じである。電子化を進めているけれど、まだ小説には手が出せていない。理由はもう一度読みたいと思ってしまうからだ。
雑誌の話しに戻ると、電子化しながら覚えていないことに落胆して、恐らく二度と読まないだろうと薄々感じながら電子化を進めることは、とても虚しい。早く終わらせてしまって、次のステップに進まなくてはならないだろう。次のステップとは、買ったらすぐに電子化して、電子化したものを読むということだ。
いや、これは本質的な解決にはなっていない。もっと読むべき本、雑誌を考えなければならないと思う。反射的に読みたいものを読むにしても、考えなければ読まなければ意味がない。記憶がないということから、ぼくは書いてあることを鵜呑みにすらしていないのだ。それでは何を考えて読んでいるのだろう。楽しかったのだろうか。それすら覚えていないのだから、読んでいなかったことと同じだ。
この前、図書館に行ったときに、読んだはずの本の内容をまったく覚えていないことに絶望したことを書いた。図書館の本だから、買っていないのだからその程度だろうということも考えた。しかし、今日は自分で買って、読んだだろう本についても何も覚えていないことに気づいてしまった。
そもそも、本とは覚えておくために読むのではないのかもしれない。本好きの人の部屋の写真とかを見ると、背の高い本棚に様々な本が並べられている。見た目も良く、こういう本なら見せるためとして持っていても良いくらいだと思ってしまう。しかし彼らはそれらの本を読んでいるのだろうか。読んで身につけて、それを活かして生きているのだろうか。