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一人でいる人格に生きている。

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一人でいるということもあって、休みの日となると、誰かと何かをするということがない。何かをやっても、反応がない。一人では生きていけないと思うけれど、実際には一人で生きている。

このように、一人では生きていけないと考える人は多いようだ。一人では生きていけない、ということが常識となることで、一人で生きていけないという方向で物事を考えるようになることは、危険であると思う。そんなぼくの懸念とは裏腹に、一人で生きていけるくらいには物理的に便利になってきているし、心理的にも一人で満足できてしまうような仕組みがたくさんある。しかし誰にも影響しないということの空虚感は、今のところ解決しそうにない。

一人であることの反対は一人ではないことだけれど、それは年齢が若いうちは、自分の親などがいるから、一人であるということはイメージしにくい。もちろん家族がいても一人だと感じる場合もあるだろうけれど、それはあくまで家族の中の孤独である。いちいち断るのも面倒だけれど、親が居ない人や家族がない人がいることも例外である。一人でいないということは、自分がいることで誰かが影響され、自分の存在が承認される。誰かがいるのに感じる空虚感は一人でいるよりも深いものだろう。今のぼくにはそれを知る由もなく共感もできないというのが、少し寂しくもある。

今ぼくがここで何かを口に出したからといって、うなずく人がいなければ、うるさいと言う人もいない。ぼくがこのブログを書いたからといって、うなずく人は見えないし、うるさいと言う人も見えない。もちろん逆にこれを書いているぼくも、読んでいる相手には見えない。見えない相手にぼくは、空虚な言葉を書き綴っているのだ。

ブログやTwitterなどには、人前で口に出せないことは書かない方が良いということが言われている。逆に、人前で言えないようなことを言えるのがネットだとも言われる。ぼくの場合は、ネットにしか言葉を発することができない以上、まだこのレベルに達してしないということだろうか。

人には多面性があるもので、会社では会社に閉じた人格があって、そこでの良いことも悪いことも、その閉じた人格だけで完結させることができる。例えばブログに書いているような人格でも、きっと良いことも悪いことがあって、でもそれを会社の人格に影響することはないだろうし、会社だけでなく、ぼくがブログを書く以外で動いている人格にも影響しないだろう。

今のぼくは、一人でいる人格を生きている。それぞれの人格がそれぞれの人格の中で責任を持つことが、一人の人間として誠実ではないだろうかと思っている。