商売の最後の手段が物書きである。

「商売の最後の手段が物書きである」
これは村上龍が言っていたことだけれど、ぼくが物書きとはなんだろうと考えるときに思い出す言葉である。

物書きという商売は、人ができる商売の最後の手段だという。ぼくは書くということに拘らず、語ることも含めて、自分の頭で考えたことで商売をすることが最後の手段だという意味に捉えている。可視化しなければ商売が難しいので、その手段として文章というのが一番わかりやすい。現実的には物書きを職業とするとしたら、自分一人で商売を完結させることは難しいけれど、考えることは自分にしかできない。最後一人でできることは、考えたことを書いて商売をすることであるなのだろう。

ぼくの場合は永遠に下積みになる可能性があるけれど、やはり書く力は付けていきたいと思う。才能があるかないかは、ぼくが知る由もない。才能は自分で開花させるものではなくて、他人が認めることで開花させられるものだから。商売というのは結果が求められる。その結果を生み出して初めて才能があったと確信できる。他人が認める結果を出すことができることが才能である。努力できること自体が才能であるという考え方もある。しかし裏を返せば、努力を他人が認めさせることができる、またそう努力することができるのが才能なのだ。陰の努力なんて言い方も、他人から見て努力していることが前提の言葉であって、本人は努力をしていなかったかもしれない。

ぼくは会社の時間しか会社のことをしていないのにまるで仕事が大好きで努力しているように思われてしまっていることと、毎日会社のことをできるだけ考えないように努力をしている自分とのギャップが、現実をよく表している。結局ぼくのことは他人が勝手に評価しているだけで、自分が他人に見せていない、本当に努力していることなど誰も見ることができない。

毎朝電車に乗ったときに辞めたいと思って、仕事中はずっと働きたくない早く帰りたいって思ってて、帰りの電車でまた辞めたいと思う現実は、誰も知らない。以前も書いたけれど、仕事に行くための電車が苦痛だとしたら、会社の近くに住むのが会社勤めという立場で居続けるための最後の手段と思っている。