本を読む前にやるべきことがある。

先日、図書館に立ち寄ったときのことを書いた。読んだはずの本の内容をさっぱり忘れていて、本を読むことに絶望した話しだ。全身で感動を得られるような、身体に染みこんでしまうような本でなければ、簡単に忘れてしまう。ぼくは表紙やタイトルを見ただけで鳥肌が立つような本を求めている。そういう本でなければ読む意味がないと思うくらい、ぼくは切実に本が好きなのだ。

それでも本を読む目的はそれだけではない。生活において実用的なことを知りたいだけで本を読むことだってある。ちょっとした悩みであれば、本に書いている答えで解決してしまうのも悪くないと思う。そこで最近ぼくが気づいた、実用書やビジネス書を読むためには何が必要かを書いてみることにした。なぜ気づいたかというと、昨日ランニングをしている話しを書いているときに気づくことができた。昨日書いてしまおうと思ったけれど、話しが変わりすぎると思って今日に回すことにした。ストックを持たないことにしているから、メモだけ残して実際に書くのも今日にした。

話しを戻すと、実用書やビジネス書を読むために必要なことは、「先に実行しておく」ということだ。今実行していることについての本は多いに役に立つけれど、これからやろうと思っていることの本は全く役に立たない。ぼくが身を持って知ったことである。やったことがないことはフィクションだと言い換えてもいい。たとえばぼくにとって手芸の本はフィクションである。想像の世界。実用的なんかにならない。もしぼくが手芸をやりたいと思っても、やっていないうちはフィクションでしかない。見よう見まねででも、やってみて初めて本が役に立つ。

本は情報と置き換えてもいいだろう。自分と関係のない情報はフィクションと同等である。実際に起こっていることだとしても、当事者ではなければ傍観者となるしかない。それを見て自分の何かが変わったとしたら、それは影響を受けただけで自ら再現することは難しい。再現できない影響を、ぼくは忘れていってしまう。本を読んで影響を受けても忘れてしまうのと同じだ。

ぼくは外貨預金をしているから、日々の為替の状況でぼくの資産が増減するという事実がある。外貨預金をしていなければ為替の情報は無意味だ。自分がいる会社や日本社会が影響を受けるといわれるかもしれないが、それが自分に影響すると思えばその人にとっては必要な情報になるだけで、ぼくは関係ないし、ぼくと同じように気にしない人もいるだろう。ぼくは為替の情報が必要だけど、本当にその情報が必要なのは、外貨から日本円に変えようとしたときだけだ。

ブログを書けば、ブログの本が身に染みる。健康に気をつければ、健康の本が身に染みる。同じように、ランニングも投資も、やる前に読んだり買ったりするものは、ほとんど意味がなかった。事前の勉強なんてできるわけがない。それでも学校ではなぜ勉強ができるかというと、ひとつは必ずやってくるテストがあるからだけど、本来はそうではなくて、勉強をすること自体が実践だからである。目的は学びの型を身につけることだ。

どんなことでも、悩みを先につくることはできない。未来の自分が何に悩むか、それを解決するためにどのような情報を必要とするか、またどんな道具が必要になるかは分からない。これがまさに、今を生きるということだろうか。