虚無を恐れ、何かを創り出す。

ぼくは何かを書くことが好きなのか。ぼくは何かを読むことが好きなのか。映画が好きなのか、アニメが好きなのか、音楽が好きなのか、珈琲が好きなのか、紅茶が好きなのか、カレーが好きなのか、ラーメンが好きなのか、女の子が好きなのか生足が好きなのか黒ストが好きなのか靴下が、そろそろ止めておくけれど、ぼくにはこのように好きなことがいくつかあるようだ。

日々ブログや小説や短歌を書いているし、本も毎日何かしら読んでいる。たまに映画を観に行って、家ではアニメを観たりする。音楽は時間があればずっと聴いている。珈琲や紅茶は毎日のように飲む。カレーやラーメンは週末に食べる。いつだって女の子をちらちら見てるし、隙があればじっと見つめてる。

ぼくは今まで「好きなこと」「好きなもの」としてあまり主張してこなかった。ぼくこれが好きなんです、とはほとんど言わないできた。そう思われてもいいように発言したり書いていたりはするけれど、いざそれが好きかと問われると「……好きかも?」くらいにしか認めてこなかった。Twitterやこのブログで「好きなこと」を書くようにしているのは、ある意味では実験である。ちなみにこのブログは、ぼくが好きなことを書いた方が、アクセス数が上がっていくということがわかってきた。

自分にも関わる一つの例として、「読むこと」は「書くこと」の反対ということではない。また逆も同じである。自分のための読み物を自分で書いていれば別だけど、自分の書いたものを他人が書いたものを読むかのように読むということは不可能である。逆に読んだことをそのまま書いても意味がないというのは明らかだろう。音楽なども同じで、「聴くこと」と「歌うこと」「演奏すること」は相反することではない。

ぼくが好きなことのなかで、自分が自分以外に対して何かを創り出せているとすれば、それは「書くこと」だけである。書くこと以外は、自分の時間や体力を消費して知識や感情を創り出すことである。自分が変化するということは、自分が創られているということだとも言える。こうやってインターネットに公開していなければ、「書くこと」も自分の中に何かを創り出すということになる。さらにいうと、もしぼくの文章を誰かが読めば、その人の時間と体力を奪い、その人の中に何かを創っている可能性があるということだ。

ぼくはいつも何かを創り出そうとしているのかもしれない。それらが内なる何かなのか、外へ向かってなのかは、深層心理のなかでバランスを取っているような気がする。それができていないときは、もぬけの殻のようになり、虚無に覆われる。この虚無を恐れているから、ぼくは、「書くこと」や「読むこと」を、いつでもできるようにしている。