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孤独を認識する

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孤独であるということを、嫌でも認識してしまう。

楽しみや喜びはあっても、感動はない。 悲しみや切なさはあっても、感動はない。

感動を表明できない自分に気づくとき、孤独ってこういうことだと確信する。

この感動とは、つまる共感なのだ。喜びも、悲しみも、その思いの分かち合いが、感動なのではないだろうか。小説や映画を見て感動するのも、その中の人物との、思いを分かち合いである。

心を動かすことが怖いから、そういうものに近づかないようにして自己防衛をする。 ぼくの防衛本能は、心を癒すことも、心を誰かに預けることも、受け入れなかった。ぼくのように脆弱な人間は、スピリチュアルとか宗教とかに、簡単に引き込まれそうなものだけれど、そういうことはなかった。逆に、ぼくがぼく自身の神的な立場に身を置くことを覚えてしまったことで、他人が作り出した宗教的な世界のまやかしに気づいてしまう。

ぼくはぼくそのものだ。誰かのために存在する概念に、ぼくが影響されるはずがない。こうしてぼくは自分を守っている。ぼくが影響されるのは、ぼくを向いているものだけ。ぼくに向いている存在は、ぼくしかいない。

生きている間に、1人で構わないから、ぼくのほうを向いてほしい、影響してほしい。この思いの強さも、弱さが生み出しているのだろう。

弱さを武器に思いを遠ざけて、ひとり惨めに生きていく。立ち止まっては苦悩する。抵抗して立ち向かえば、その苦痛にうなだれる。

いつも立ち止まって、ぼんやりしてるから、他のことが入り込む隙がないのではなくて、近寄りにくいのだろうか。そうだとしたら、ぼくはどうしたらいいのだろうか。わからない。