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なにもない生活(「わたしのウチには、なんにもない」)

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このブログですでに何回か書いたけれど、ぼくはモノを持たない生活を考えている。

先日関東地方を台風が直撃した日に、電車に乗れず駅ビルをさまよってるなか本屋で見つけた本がある。それは「わたしのウチには、なんにもない」(ゆるりまい)という、コミックエッセイであった。ぱらぱらめくってみると、この作者の家には本当にモノがないようだった。しかも広い。結婚されていて、夫、母、祖母の大人4人と猫1匹で住んでいる。これは面白そうだと思い、「わたしのウチには、なんにもない」は2冊出ていたので、早速2冊とも買った。

作者のゆるりまいが、元々は普通の家に住んでいたことや、物を捨てることに執着し始めていった過程や、東日本大震災のこと、物を捨てることに対する家族の反応と変化が、面白くかつ切実に描かれている。

読んでいくと「気にするものがなにもないことによる精神の安定」と「生活感をなくしたい」というのが生きるテーマのようだった。これは、気にしているものや生活を外的要因により壊されてしまうことへの最大の防御とも取れる。自分の力が及ばない力に破壊されてしまうのであれば最初からないほうが良い。そういう自分と家族のことや、他人の片付けに関して納得いかないことへの対処法も考えている。紆余曲折はあれど線引きができているのも、自分の問題として捉えられているからだろう。

ゆるりまいは自身で自分のことを「捨て変態」と言っている。捨てることに執着するようになったのは彼女が生きてきた環境による影響が大きいのだろうけれど、さきほど書いたように共感できる部分が多い。困らない程度にモノをなくし、必要なものはちゃんと買う。どうしても持たなければならないのなら、一番気に入ったものにする。適当にモノを持つくらいなら、持たない。モノを持つことに意味がないのではなくて、意味がないモノを持つ必要はない。モノを大事にするとは、持っているモノに意識を向けることで達成することができる。つまり意識を向けられるモノだけを持っていれば十分ということだ。

ぼくは自分の生活環境を作り直そうとしている。人生は環境次第であるということを身を持って味わいたい。同じ環境に居たとしても、感じることは人それぞれだろうが、感じたり感じなかったりすることを含めて、環境の影響を受ける。ゆるりまいは、実家での暮らしと東日本大震災の影響を大きく受けている。対してぼくは、どうしてもやらなくてはいけないという精神状態ではない。もし本当にモノを持たない生活をはじめたとしたら、それはそういう精神状態だということかもしれないけれど、すくなくとも今のぼくは、まだ懐疑的だ。こうやってブログに書いていくことで、変化を認識できるようになる。いつか自分の部屋を写真に撮って公開してもいいと思えるくらいに、すっきりさせたい。まずはそこを目指そうかと思い始めていることがある。具体的なことは、また次の記事に書きたいと思う。