手帳が彩らない日々(2)

(つづき)

そこでぼくは2012年の手帳シーズンに、手帳に何も書かない理由を考えてみた。やる気がないというのでは、やる気を出す方向への一方通行でしか考えられなくなるので、優柔不断で身体的な理由はないだろうかと考えを深めていく。手帳に書くような出来事がない。手帳は紙が薄くて文字が書きにくい。手帳を開くと丁寧に書かないといけない気がしてくる。文字を書くのが苦手で、書いていると嫌になってくる。その日に何も書くことがないことに気づくのが怖い。

こうして手帳が恐怖の対象に変わりつつあった2012年は2013年の手帳を買わずに、代わりにモレスキンのノートを買った。モレスキンのノートには日付がないから空白は生まれない。紙質が良いし、表紙が堅いので手に持って書ける手軽さがある。実際、仕事で海外出張に行ったときは、このモレスキンを片手にメモを取るのが楽しかった思い出がある。

2013年も10月後半になるので、モレスキンについて振り返ってみよう。モレスキンも常に鞄に入れてある。フリクションも持っていて気持ちがいい、少し高めの3色タイプを買っていた。

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これを揃えた去年の年末は、やる気に溢れていた。日付を入れたりしている。しかし、ここ数ヶ月は開いた記憶がない。半年を超える。結果的に「ほぼ白紙」だった。さらにいってしまうと、この写真のモレスキンは2冊目である。今年の3月くらいにEvernote版のモレスキンに切り替えている。切り替える前もほとんど書いていないし、切り替えた後もほとんど書いていない。ここまでいくと、ぼくは書くことができないのだと分かってくる。

さて、2014年はどうしよう。手帳もノートもぼくには使いこなせないようだ。精神的にも身体的にも、ぼくは手帳に馴染めないらしい。そして手帳に「何か」を書けるような生活をしていないことを認める。手帳を彩る輝いた出来事も黒々とした出来事もない。手帳に記憶させたい未来の予定もないし、やらなければいけないこともない。もし今手帳のTodoに書くとしたら、「手帳を書く」なんてことしか思いつかない。

ぼくは過去も現在も未来も、空っぽである。空っぽだとしても、生きていけるのだ。気に病むことはないと言い聞かせる。手帳を涙で濡らすことがないだけ、ぼくは不幸がない。生きたいと思えるような幸せがなくても、死にたくなるような不幸がなければいい。

手帳を素敵に使っている人はきっと手帳を使わずともすでに素敵なのだ。仕事でもプライベートでも、なんでも自分がやるべきことを記録し、それを振り返っていくということは、人生を丁寧に過ごしているということだ。そんな素敵な人が日々を記録しているのだから、当然素敵な手帳が出来上がる。もしどこかで素敵な手帳を書いている人に会ったら、ぼくは眩しくて見ることができないかもしれない。しかしまだ、そういう手帳を持っている人に出会ったことがない。みんな家に隠し持っていて、1年間こつこつ宝物を作っているのだろうか。もしかしたら、違う星に住んでいるのかもしれない。