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その出来事や情報を知る必要はあるか?

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世の中で起こっている刑事事件について、本当に自分に関係のある出来事なんてほとんどない。自分と関係ない人間同士の固有の事件のことを知ることに意味はない。自分にも似たようなことがあるからというのであれば、それはすでに自分の身辺で発生している関係であって、他人の出来事なんかに構っている余裕などないはずだ。

報道されているから一般教養として知る必要がある、というのは報道のまやかしである。ぼくたちは「報道で生きている人を生かすための仕組み」=「ニュース」を外から眺めているだけに過ぎない。ある固有の事件について真実を語っているわけでもないし、理路整然と整理されているわけでもない。しかもその事件の終結まで語ることがない、無責任な仕組みである。裁判の行方が新聞の小さな記事に載ったり、週刊誌でページが割かれることもあるけれど、それを読む人の関心を失っている以上、結果的に最初の報道が意味のないものだということになる。

ぼくは自分が生きている時間はすべて「なにかに関係している」と考えている。無心になることなんて不可能であり、一人思いに耽るときでさえ、思う対象と関係している(関係しようとしている)に過ぎない。こうして生きている時間を関係することに費やしていくのが人生であるとすれば、人生を豊かにするには関係する対象について考えておくべきである。

この関係する対象について、最も優先するべきは「自分に関係すること」であり、最も不要なのは「自分に関係しないこと」である。こんなこと当たり前だと思うだろうが、「自分に関係しないこと」のことを考えている時間が意外と多く、「自分に関係すること」を考えている時間が少ないのではないか。「自分に関係する/しない」の境界が人によって異なるということもあるが、もし考える機会があれば考えてみて欲しいことがある。それは「自分に関係しないといけない」「自分に関係しておくべきだ」と自分との関係を先読みしたり、決めつけてはいないだろうか。ぼくはいわゆる「情報」のほとんどが提供する人にとって少し過去のものであるのに、受け取る人にとってはそれが近い将来の自分に必要かもしれないというものに変化して「情報」が「必要」だということになっていると考える。インターネットでは情報提供のスピード感が早く、ほぼリアルタイムになっているから、瞬発力として必要性が高いように思えてくる。すぐに使える情報だから今ぼくには必要なのだ、と思ってしまう。TwitterRSSリーダーのように、待っていれば流れてくる情報に抗うことは心理的に難しい。何故なら、情報の数が多くなればなるほど、知りたかった(かもしれない)ことにひっかかる可能性が高くなる。iPhoneの情報を知りたいと思って調べ始めたら、目がくらむほど情報が溢れていて、リンクを巡る旅に出てしまうということだ。

また気になることを多くの情報から選別することは不可能である。選別するという行為がすでに多くの無駄を発生させている。この無駄をなくすためには、制限された情報を網羅的に知るほうが効率がいい。だから新聞だけを読んでおくとやり方もある。ぼくは読みにくい新聞を読むことはないが、ある程度の絞り込みは必要だと考えている。

視点を変えて、なぜ今のように大量の刹那的な情報が溢れかえってしまったのか。それは情報を提供する側も受け取る側も(一見)「無料」であるからである。それは人が「暇」になって時間を無駄遣いできるようになったということであり、さらにはそれら刹那的な情報と広告のセットが「ビジネス」になったからだ。

ぼくたちは結局のところ情報によって自分の貴重な資源を搾取されているのだ。