Xperia tablet Zもkobo gloも想像以上に使わなかった。

Xperia tablet Zもkobo gloも道具としては良いものだ。そしてこれらはぼくが好きなものであり、興味があるものであり、持ちたいと思ったものであることも間違いない。しかし持ってみたところで、自らの意志でそれらを使おうとしなければ道具としての素晴らしさを享受できない。持っているがために、使うことに対して後付けの理由が必要になってくる。必要なときがとても限られている上に、言い方を変えれば、必要なときを探しているようでもある。

kobo gloに関していえば、月1(実績としては月1以下)で本を読むために持っているようなものであり、電子インクでの読書体験をする以上の意味を為していない。読書体験は、本を読むこととは違う。本を読むならiPhoneの画面でも紙の本でも構わない。電子インクはあくまで本の文字を表示させている機能に過ぎない。

かわってXperia tablet Zは持っていて気持ちがいい。10.1インチフルHDの画面は綺麗で、サイズが大きくても軽い。片手でも楽に持てる。この画面サイズと解像度を活かして雑誌を読むことができる。ぼくはiPad 2も持っているのだが、iPad 2は解像度が低いのため雑誌だと文字がぼやけてしまう。電子版で発行されている雑誌はXperia tablet Zで読むことができるようになった。この他に使う機能としてnasneとの連携が簡単で、家のどこにいても好きなアニメが見られたり、ラジオ的に番組を流せるのが素晴らしい。音楽を聴くのも、Walkmanアプリを使ってPCをメディアサーバにしたDLNAによるストリーミングも簡単だ。さらに映像や音楽以外のもっと身近なメールや文書作成、TwitterなどはiPhoneでいつでもできるようになっているから、Xperia tablet Zが登場することはない。

しかし、これらの素晴らしい機能をぼくは日常生活で使うことができない。禅問答みたいな言い方をすれば、日常生活ではXperia tablet Zが目の前にないからだ。その機能に対して"敢えて自ら"楽しみに行かなければ享受することができない。さあXperia tablet Zを使おうと思わなければ使うことがない、生活のなかに存在しない道具となってしまっている。さきほど書いた雑誌なんかも、Xperia tablet Zがなければ読まないかもしれない。

SONY製品での連携をもっと進めれば使えることが増えるだろうか。ぼくはSONY製品が好きで、PS3やAVアンプやヘッドホン、ウォークマンは基本的にSONYなのだけれど、これらでは連携するのは一部しかない。VAIOも欲しいけど、PCは生活の中であまり使わないし、PCなら ThinkPadのほうを優先してしまう。テレビは全く必要ない。この冬に買う予定でいるDSDオーディオと連携できるともっと使う機会が増えるだろうか。しかしiPhoneでも連携アプリが出て、結局iPhoneで操作をすることになるような想像ができてしまう。

持っている道具は素晴らしい。持ちたいという欲求もある。しかし、使う目的が2次的な手段でしかなったということに気づく。そして1次的な手段に比べて、2次的な手段を使う機会が極端に少ない。本は紙の本やiPhoneで読む。テレビなら腰を据えてnasneで見る。映像もPS3を使う。音楽はPS3かウォークマンで聞いてしまう。雑誌はそもそもそれほど買わない。

モノを買うときに、何かの代替手段として使うことを目的にした場合、本当に使う場面があるかどうか、立ち止まって考えてみるべきだと考える。製品のホームページやCMはその製品を使った煌びやかな生活を想起させるように作られている。それが優れたコマーシャルでもある。

ぼくはそういうモノが目の前にあると、それを何かに使えないかということを考えてしまう。考えて使ったとしても、それ1回きりになってしまう。結局、日常に馴染まないために、すぐに放置される。そして半年もすれば進化した新しいモノが発表されてガッカリする。生活に馴染まないモノは、こういう運命を迎えるのだ。