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呪われている人には近寄らない

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他人に攻撃的な人間や繊細チンピラというような呪われている人間には、ぼくは近寄りたくない。近寄らずに、見ている。見て、人間の本質とはなにかを受け取る。想像する。ぼくにないものを書くためには、他人を見るしかない。

呪われるということは、考えることをやめるということであり、人間らしさを失うということ。考えることは生きることだとするならば、生きることをあきらめているともいえる。こんな風にあきらめた人間は怖い。「私はあきらめている」ということを逃げ口上に、周囲を攻め立てる。その人は周囲を責め立てているなんて少しも思っていない。何故なら、「周囲より自分のほうが下」だと呪いをかけているから。周囲がつらい思いをするというところまで考えが及ばない。繰り返すが、そういう人間は考えていないのだ。

空気が読めないというコミュニケーション不良を揶揄する言葉があるが、空気が読めない人は、意味を持って集まっている空間を破壊してしまう。人は家庭や労働、冠婚葬祭といった祭事を含む生活の場面において、多くの時間を寄り合うことで生きている。空気を読めない人、つまり寄り合いの意味合いを受け取れない人が何を考えているかというと、何も考えていない。強いていうなら、自分のことしか考えていない。ぼくは他者との関係のなかで自分のことしか考えていないことを「考えている」とはいわない。もしぼくが自分のことを考えていても、他人には関係ない。他人がその人自身のことだけを考えているとしたら、ぼくはその人が考えていることは全く関係ないのだ。関係しないことには関わることができない。

ぼくは、「考える」ということは、呪いからの解放であると考える。なにも考えなければ、まず子供は親に呪われる。そして学校や学校の先生、教科書や本、さらには他者の思想や芸術に呪われる。日本には宗教が少ない。(いくつかの宗教団体を思い浮かべると、少なくないと言った方が正しいのかもしれないが、ぼくには判断できない)

宗教心というものに呪われなかった人は、皆それぞれ、少し歪んだ形で自分を呪ってしまう。自らは考えずに、すでにある考えに従った方が楽だ。それが宗教でないならば、世間、常識というものに置き換えればいい。

ここまで書いて思うのは、ぼくも少なからずそうだということ。だから生きづらいのだ。少し歪んでいるけれど、社会の中のちょっとした集団では、その歪みのなかにある「似ている部分」でまかなうことができる。この「似ている部分」が「常識」で、例えば会社のためなら自分の考えとは関係ない言葉を発することができるのは、呪いにかかっている部分があるからだ。

こういう風に書いているぼくも、世間や会社のなかではきちんと埋もれる。これも一種のあきらめだろうか。あきらめている自分に、ぼくは近づきたくない。このブログはそんな自分を突き放そうと、もがいているようにすら思えてくる。