謙虚さと傲慢さ

 ぼくだけではないと思うが、人は謙虚さと傲慢さを持ち合わせている。謙虚さを見せる場所と傲慢さを見せる場所を間違えないようにすることが、人間関係において大事なのではないかと考えている。
 たとえばブログを書く上では、傲慢さを出してもいい。むしろそのくらいでなければ味がでない。それとは違い、仕事や学びの場(読書などを含む)では、謙虚さを出さなければならない。仕事や学びの場においては自分など関係ないのだ。仕事は自分が使われている場面であり、学びの場は自分を変える場面であって、それに抵抗するような傲慢さは変化の邪魔であり、かつその場にいる人たちにとって迷惑なものとなる。
 ぼくはこの考え方に縛られているのか、自分の意見を話すと傲慢さが出てしまうことが、なんとなくわかる。だから謙虚にいたい場所では話すことができない。仕事の場において、自分の意見が求められ自分の意見に対する意見がある場所では、話すことができる。しかし学びの場では、話しを聞き自分に取り入れる以外のことをしたくない。
 これは人の考えに対して自分の考えを述べることが苦手であり、さらにいえば意見が対立したり相手の怒りを買うのを恐れているということでもある。自分としては、調和を図っていると思いたいのだけれど、何か物足りないとも思ってしまう。あるテーマに対して議論をして互いの認識を摺り合わせ、発展させていくことを対話というが、そういう場があると、自分の意見を話すことができるだろうか。

TSUTAYAという場所

 引っ越した場所には代官山蔦屋書店とSHIBUYA TSUTAYAという、2つの大きなTSUTAYAがある。ぼくは10年以上前になるが、大学に行っている4年間、実家近くのTSUTAYAでアルバイトをしていた。音楽が好きで、中学の頃から毎週のようにCDショップに通い、そしてCDを買い続けていたぼくは、最初はレンタルかCD販売を望んだのだが、結果的に書籍売り場で4年間働いたのだった。そこで本に興味を持つことになり、すこしずつ読書をするようもなった。ぼくはいわゆる青春の4年間の多くの時間を過ごしたTSUTAYAに愛着がある。
 先日代官山蔦屋書店に行ったときにTSUTAYAの創業者である増田宗昭の本「代官山 オトナTSUTAYA計画」を買って読み、増田宗昭TSUTAYAにかける思いやコンセプトを知ることが出来た。増田宗昭はコンテンツを所有するという生活に変化が起こることを察知し1983年にレンタル事業を始めた。TSUTAYAが全て持っていて貸し出すから持っている必要はないという環境を作ろうとした。それから20年くらい経ってできた代官山や渋谷のコンセプトは、「ない映画はない」である。DVD化されていない映画はVHSがレンタルされている。
 代官山は映画だけではなく、街の図書館ともいえる大規模な書店をつくった。4000坪のカフェのなかに本屋がある。その本屋のなかにスタバがあり、スタバのコーヒーを飲みながら本屋やCD、DVDを選ぶことができる。そして近年は図書館も運営するようになり、ビジョンが確実に現実になっているのだとわかる。
 先日は代官山、今日は渋谷に行ってきたのだけれど、TSUTAYAにいるといつも時間を忘れて歩き回ってしまう。知っている音楽や映画のことを思い出したり、聴いてみたいCD、観てみたいDVDを気軽に借りて帰れる。これ以上ないTSUTAYAに通えるという、とても素晴らしい環境に引っ越してきたと思った。

映画「フォレスト・ガンプ」を観た。

 今朝前の家に戻り粗大ごみの回収1回目が終わった。次回23日で全てが捨て終わる。しかし今日は、近隣の人に注意されるという事案が発生して、すぐに回収に来るからこのままにして欲しいという旨と、23日にもう1回こういうことになるということを言って、その場を収めた。23日にも一悶着ありそうで、すこし憂鬱になる。反省して必要以上のものを買わないといっても、完璧にはできないもので、粗大ごみが出たら1つずつ捨ていくのが平和であることを学んだ。もう前の家にはほとんど戻らないので、何があろうと乗り切ってしまおうと思う。
 また今日は平日なので、転出届と転入届をそれぞれの区役所に提出した。またぼくは運転免許証を持っておらずパスポートも期限が切れてしまったので、住民基本台帳カードを作る手続きもしたいと思っている。顔写真付きの住基カードがあれば、健康保険証以外の身分証明としては十分だろう。

 あとは途中休憩しつつプロバイダを解約したりiPhone6を触ってきたりと、外を歩き回り帰ってきたところで、映画「フォレスト・ガンプ」を観ることにした。この「フォレスト・ガンプ」は一度は見たことがあったと記憶していたが、一度も観たことがないことがわかった。観たことがあるという映画は、何か他の似た映画と間違えているかもしれないけれど、まったく思い出せない。

 映画のなかで、フォレスト・ガンプがアメリカの50年代~80年代の重要な歴史の場面に顔を出して、さらには有名になっていく姿がいちいち面白い。「一期一会」というサブタイトル(?)がついているように、本人の意思とは関係なく、また本人の理解なども関係なく、フォレスト・ガンプラグビー選手で有名になり、ベトナム戦争に行き、卓球で有名になって、エビ漁で億万長者になる。そして自分の子供ができる。特にベトナム戦争以降は、ババや少尉などパートナーとなる人物とのすれ違いと、それに伴って友情も強固になっていく場面が感動する。元々幼なじみのジェニーとはずっとすれ違いっぱなしであり、ジェニーが人生の物足りなさをドラッグ・セックス・ロックで埋め合わせ、最後は若くして病死するという生き方をして、フォレスト・ガンプは自分の意思とは関係なくアメリカンドリームを叶えるという究極の対比が、最後ジェニーの墓の前でフォレスト・ガンプがつぶやく「どんな生き方が正しいの分からない」という言葉を生んでいる。フォレスト・ガンプは、IQは低いけれど、それが故に正しいと思う行動することができ、相手のことがわからないときには自分が動けないと言うことにも正直だったのだ。確実に悪い方向に進んでいるジェニーを無理をしてでも離さないという行動が取れなかった。そして最後、それまで目の前につきつけられてきたジェニーやその他の人たちの生き方に対して、正しく「分からない」と考え吐露することができた。
 映画はフォレスト・ガンプの視点で描かれているので、傷ついて人生が止まるくらいにどうしようなくなることがなければ、周りに悪人も出てこない。延々走り続けていた時期が人生の停滞といえるのかもしれないが、走り続けているときに思い出すことは「前に進むためには過去を捨て去らなければならない」という母の言葉であった。
 人生の転機は自分の手のみで切り拓くものではない。見逃しているだけなのかもしれないと思う。未来の自分に過去など関係ない。もうすぐ終わる一連の引越し作業で過去を整理できれば、ぼくの人生も切り開けるかもしれないと思うことができた。

いつのまにか夜になる。

 書くことがない。朝は映画「スティーブ・ジョブズ」の続きを見て、仕事に出掛けて、帰りに喫茶店に寄って帰ってきていつのまにか23時半になっている。

 ブログを書く時間がなくなってきたといってもいいし、家に椅子がないためパソコンの目の前にあることもないし、iPadに触らないので書くことを忘れているということもある。

 新しい生活に慣れていくなかで、ブログを書くことの優先度がどう変わっていくか、見守りたいと思う。

散歩はいつも歩く道だから楽しい。

 引っ越してから毎日、新しい場所を散歩するようにしているのだけれど、散歩はいつも歩く道だから楽しいということに気づいた。新しい場所での散歩は、見たことがない道を歩いている不安の方が大きくなり、散歩に集中することができない。
 徒歩で行動する範囲を20分圏内、距離にして2㎞以内程度としている。会社も2㎞以内、周辺の駅や行きたい場所も2㎞以内にまとめる。何年も前に自転車を盗まれてから、徒歩のみで生活するようになって、徒歩の良さに気づいてから、そのままにしている。子どもの頃なんかは、歩いて5分くらいのところにも自転車を使っていたことを思い出すと、変わるものだ。
 20分というのは、そのくらい歩くと足が痛んできて他のことをあまり考えられなくなる時間である。走るときは走ることだけを考えているので、1時間程度まで走る。
 しかし今新しい場所で散歩すると、すこし疲れが溜まりやすい。それはまだ目的地に行くためにGoogleマップを駆使して、道を探りながら頭も使っているからだろう。道のりが把握できない状態では音楽も邪魔になる。やがて目的地に行くために頭を使わなくなれば、他のことを考えたり音楽を聴いたりできるようになり、散歩がもっと楽しくなるに違いない。